未来を変えた?(4):道賢の臨死体験と改名
11世紀末~12世紀初めに成立したとされる史書『扶桑略記』には、『道賢上人冥途記』という驚くべき臨死体験談が収録されています。
道賢という名の修験者が山岳修行中に絶命し、冥界で金剛蔵王菩薩から「お前の寿命はあとわずかだ。延命するには名を日蔵に改めて、善行をなせ」と教えられるのです。
金剛蔵王菩薩が姓名判断に熟達していたかどうかは不明ですが、延命の秘訣として、善行を勧めるだけでなく、改名も促すところがこの話のポイントです。イエスの場合は天使ガブリエルの命令でしたが、道賢の場合は金剛蔵王菩薩の忠告だったのです。
●道賢の修行とその時代背景
道賢は12歳で出家し、金峰山(奈良県)で26年間、塩穀を絶つ修行をしたそうです。
天慶四年(941年)、世の中に災難や奇怪な事件が止まないのを憂えて、洞窟に籠り、21日間の無言断食行(言葉と食べ物を断つ修行)に入りました。その目的は、霊験の助けによって天下を鎮護することでした。
ところが、道賢は修行の最中に高熱を出し、ついに息絶えてしまいます。そして13日後に蘇生するのですが、このときの臨死体験から、当時の災厄が世間の噂どおり、怨霊となった菅原道真の仕業であり、どうすれば解決するか、その方法も知ることになるのです。
●菅原道真の怨霊
菅原道真は、今でこそ学問の神様として信仰されていますが、947年に現在の北野天満宮(京都)に祀られるまでは、各地に災厄を撒き散らす大怨霊だったそうです。
道真は藤原時平の謀略にかかり、903年、左遷された大宰府で失意のうちに亡くなりました。その数年後から、都では洪水、大火、旱魃、疫病が起こり、道真を陥れた関係者が相次いで変死するのです。このころから「菅原道真の祟」が噂されるようになります。
そして930年、一連の怨霊話にクライマックスが訪れます。清涼殿への落雷事件です。このとき道真の失脚に関わった藤原清貫が、その名前のとおり、雷に胸を 貫かれ(直撃され)て死亡したのです。ほかにも数名が死傷しました。
その3ヶ月後、道真に左遷を命じた醍醐天皇も崩御しますが、この落雷事件の恐怖が原因でした。
当時、貴族も民衆もこうした変事に不安を募らせ、恐ろしい「菅原道真の祟」の噂はますます広まっていきました。
道賢の無言断食行にはこのような社会的背景があったようです。そして図らずも、次のような臨死体験をすることになるのです。
道賢が壇に上って修法していると、とつぜん高熱が出て喉と舌が乾き、呼吸ができなくなりました。そして・・・。
●道賢の臨死体験
●『道賢上人冥途記』は真実を語ったものか?
実に不思議な体験談ですが、問題はこの信憑性をどう評価するかです。道賢は実在の人物とされますが、この臨死体験談については疑う余地がいろいろあります。
まず、道賢自身が体験内容を意図的に創作した可能性です。研究者の中には次のような見方もありますから、そういうことなら、創作の動機にはなり得たでしょう。
また、道賢の蘇生は941年ですが、『扶桑略記』の成立は11世紀末~12世紀初めです。両者には150年ほどの開きがあります。この間に何者かが別の目的で原本の内容を都合よく書き換えたかもしれません。『道賢上人冥途記』の原本はすでに失われているそうですから、十分あり得ることです。
あるいは、『道賢上人冥途記』が意図的な創作でもなく、誰かの書き換えがなかったとしても、それだけで「道賢の臨死体験は単なる夢や幻覚ではない」とは断定できません。『道賢上人冥途記』には先行する説話集との類似点がたくさんあるからです。
たとえば、『日本霊異記』には道賢の臨死体験とよく似た描写がでてきます。『日本霊異記』は9世紀初頭の成立なので、年代的には道賢の臨死体験より100年以上も前です。『日本霊異記』や、そのもとになる説話等が、何らかの形で道賢の体験に影響した可能性も考えられます。[注]
そもそも、頻発する災難や奇怪な事件を「菅原道真の祟り」とする噂は、道賢の臨死体験より以前からありました。道賢自身がそうした災厄の解決を求めて洞窟に籠ったくらいですから、この種の噂は道賢も知っていたでしょう。
つまり、「菅原道真の怨霊が一切の疾病と災難のみなもと」とは、とくに耳新しい情報ではなかったわけです。
体験内容が全体的に仏教色を帯びているのも気になります。道賢が仏教修行者であったことと関係がありそうです。また、道賢が蔵王菩薩からもらった延命の短札(「日蔵九々、年月王護」)は道教的思想から来た着想だ、との指摘もあります。[*4]
道賢の記憶の奥底に眠っていたこれらの情報が繋り合い、朦朧とした意識の中で壮大な霊界探訪ストーリーを作り上げたのかもしれません。
しかし、以上のすべてがさまざまな程度で影響したとしても、それだけで『道賢上人冥途記』ができあがったとも思えません。この話の中核となる何らかの異常な体験が、道賢には確かにあったようです。
●シャーマニズムの観点から
ここで道賢の臨死体験を簡単に振り返ってみましょう。
突然の高熱と死、執金剛神による介抱、蔵王菩薩による金峰山浄土への導き、寿命の告知と延命法の伝受、「日蔵九々、年月王護」の八字の拝受、菅原道真の怨霊(一切の疾病・災難の根源)との出会い、疾病・災難の解決法(菅原道真の形像をつくり、名号を称える)の教示、そして蘇生。
以上が13日間に道賢が体験したことですが、実はこの一連の体験がシャーマンの神秘体験に大変よく似ているのです。
シャーマンとは、神や精霊などと直接交流する霊媒師や呪術師のことです。そしてシャーマンを中心とした信仰がシャーマニズムです。
シャーマンには、「口寄せ」などのように、神や霊魂がシャーマンの肉体に入り込む「憑依型」のほかに、シャーマンの霊魂が自身の肉体から脱け出る「脱魂型」があります。そして、この「脱魂型」が道賢の体験にそっくりなのです。
このことを宗教民俗学者の堀一郎は次のように指摘しています。
●道賢から日蔵への改名 ― その魔術的効力
ここで特に注目したいのが、蔵王菩薩が改名を促すくだりです。道賢にとって修行が必要なことは理解できます。「日蔵」の意味も理解できます。ですが、それらと改名することに何か関係があるでしょうか。
この神秘体験談から、蔵王菩薩の「早く名を道賢から日蔵に改めるがよい」と太政天(菅原道真)の「それゆえ名を日蔵と改め」の部分を消し去っても、まったく不都合はないように思えるのです。
ストーリーに何の影響も与えないような改名の促し、これは一体、なんでしょうか!? やはり、夢や幻覚ではなく、霊界で神的な何者かから確かに改名を促されたのではないか。そして、「日蔵」という名前そのものに魔術的な意味があったのではないか、と考えたくなるのです。
道賢の没年は967年とも、985年とも言われているようですが、蘇生したのは941年です。道賢は太政天から「名を日蔵と改め、勇猛精進しないと、余命は八一ヶ月(7年弱)しかない」と諭されていました。
ということは、日蔵に改名した後、20年くらい延命したことになります。これこそ「日蔵」という名前がもたらした魔術的効果だったのではないでしょうか。他に善行努力の影響があったとしても・・・。
●補記:もうひとつの『冥土記』
実は、『道賢上人冥途記』には兄弟本があります。『北野文叢』に収められている『日蔵夢記』です。こちらは内容的に『道賢上人冥途記』より詳しく書かれています。
そこでこの両者の関係については、一方が他方を簡略にしたものか、それとも反対に内容を膨らませたものか、議論が分かれるようです。
『日蔵夢記』には『道賢上人冥途記』にでていない記述がたくさんあります。その中のひとつに道賢自身の前世譚があるのですが、多分に『日本霊異記』やその他の法華経霊験譚(法華経にまつわる霊験譚)の形式を踏んでいるそうです。[*6]
このことからすると、少なくとも『日蔵夢記』の前世譚は、誰かが後から原本に書き加えた可能性が高いように思われます。
その一方で、「日蔵の蘇生説話は「日蔵夢記」によってはじめてその全貌が明らかになるのであって、諸書に散見する日蔵の説話の多くが、この中に含まれている。本書〔『日蔵夢記』〕の祖本が『扶桑略記』所引本〔『道賢上人冥途記』〕のようなものを増補して成立したとは考え難い・・・」とする説もあります。[*3]
しかし、両者のどちらが先に成立したとしても、当ブログでの関心事には影響ありません。というのも、改名のくだりは両者にまったく違いがないからです。
どちらも「早改汝名」「改本名称日蔵」と書かれています。この部分に限っては、キリスト教の福音書にあったような記述内容の不一致はないのです。