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「薔薇窓」を詠む

人肌に触れれば朽ちてゆくような夜の薔薇窓 朝の薔薇窓

 ことばを起点に短歌をつくっていると、しばしばぶつかる壁がある。歌に詠み込もうとするある語彙が、すでに人口に膾炙した名歌に用いられているような場合だ。今回は、そのような創作時の、先行歌をめぐる葛藤について。


 ゆうに千年以上もの歴史と伝統をもつ短歌において、またたかだか三十一文字というこの短詩型において、先行歌との類似というのは避けがたきテーマなのだろう。短歌をはじめて以来、歌集や歌書を読む機会もそれなりに増えたが、記憶インプットする量が増えるにつれて、先行歌からの影響を意識することも当然のように多くなった。
 創作時に、今まさに自分が詠もうとしている歌が、どこかで読んだ誰かの歌に似ている気がする、とそう感じることは誰しも少なからず経験があるように思う。どれほど独創性オリジナリティのある歌を詠んだつもりでも、人が発想し得ることなどたかだか知れていて、似たような先行歌の可能性は、常にある。

 ときおり、ある歌に対して、先行歌との類似を盗作や剽窃だと指摘する声も聞かれるけれど、そういうケースは極めて稀だと思う。自分でも無意識のうちに、どこかで見聞きした歌が記憶に残っている、ということもままあって、部分的なフレーズの類似を指摘すればきりがない。そういう場合は、正直、剽窃というよりは、発想の凡庸さの方を批評すべきだと思う。
 僕自身、かつては〈発想や切り口の斬新さ〉で作歌を続けていた時期もあったが、次第にそういうタイプの歌は作りづらくなっていった。発想アイデアの枯渇、というのもあるかもしれないけれど、どちらかというと、〈上手く言い得た〉ような歌にそれほど魅力を感じなくなったという方が大きい。

 
 〈発想の類似〉ではなく、むしろ作歌の上でときおり意識されるのは、先行歌における語彙そのものについて。
 あることばが、すでに人口に膾炙した名歌に容易に結びつくような場合、同一の語を歌に詠み込むのは、実際のところハードルが高い。たとえ歌意は全く異なっていたとしても、読者の脳裏には避けがたく先行歌が浮かぶことになる。それが優れた名歌であればあるほど、後発の歌は相対的な比較の眼差しに晒されてしまう。
 はじめに詠んだ者勝ち、というわけではないけれど、ことばを起点とするような作歌スタイルにおいてはことさらに、先行歌には語彙の既得権益を感じてしまうことも少くはない。


 これは、固有名詞については想像に難くないけれど、一般的な名詞(ことば)においても同様である。時代の流行を端的に象徴する語や、一首のなかで詩的モチーフとなる語彙など、むしろケースとしてはこちらの方が多いような気がする。

 例えば、「薔薇窓」もその一つ。

寺院シャルトルの薔薇窓をみて死にたきはこころ虔しきためにはあらず
                              葛原妙子

『薔薇窓』

 まさに『薔薇窓』と題された集中の一首であり、言わずと知れた葛原の代表歌である。「薔薇窓」といえば、まずこの歌であり、何人もこのことばを用いては、先の歌の磁場から逃れることはできないだろう。それほどに、「薔薇窓」という語は葛原妙子と密接な結びつきがある。

 そう考えていた矢先に、次の歌に出逢った。

薔薇窓をみて死にたきと薔薇窓にあの人の声ふはつと浮かぶ
                             尾崎まゆみ

『ゴダールの悪夢』

 先の葛原の歌をふまえた歌で、修辞としては本歌取りということになるのだが、まさに「ふはつと」いう軽やかな歌いぶりに惹かれた。何よりも、この歌からは葛原妙子という偉大なる先人、ではなくて、作者自身が実際に眼前にしている「薔薇窓」そのものが感じられ、そこがいい。避けがたい磁場に抗うのでもまた屈するのでもなく、その磁場に悠々と身を委ねるような歌の佇まいに、技巧的な上手さを超えた魅力がある。



 最後に、冒頭の拙歌について。無謀にも「薔薇窓」の語を詠み込んだのはもう3年程前に遡るのだが、当時、どれほど「あの人」の歌を意識していただろうか。「人肌」のあたりに、自惚れのような自意識とともに名歌への視線が感じられる、そんな気もしている。

 それでも、ひとつ覚えているのは、僕もまた自身の体感から「薔薇窓」を詠んだということ。かつて、火災により焼失するはるか昔にこの目で見たパリ、ノートルダム大聖堂のステンドグラス。僕自身はクリスチャンでもなく信仰心に厚いわけでもないが、有無を言わせぬような美しさと静粛に触れた瞬間、そこに人が神を信じることのことわりを、少し垣間見たような気がした。

 そんな実体験から後に生まれた冒頭歌。火災による甚大な被害を受けた大聖堂は今も懸命の修復作業の途にあるという。ゴシック建築の傑作であるあの優美な姿を、若き日に心を揺さぶられたあの壮麗なステンドグラスを、もしかすると僕はもう二度と目にすることはないのかもしれない。けれども、この歌を見返すたびに、記憶のなかにほんの一瞬だけ、美しき光と影のあわいに浮かび上がるごとく、あの薔薇窓は蘇るのである。


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