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完璧主義からの脱却〜オードリー・タンから学ぶ〜

オードリーは台湾の国民中学に入学後、学校教育に限界を感じ自宅学習を開始。進歩的な校長の配慮で試験日のみ登校し、独自の知識体系を築いた。その過程で大学の哲学講義を聴講し、他者と異なる正しい答えを持つ重要性を悟る。幼少期の競争や完璧主義教育の影響から脱却し、個人ではなく共同で問題を解決する意識を養った。知識をジグソーパズルのように共有し模範解答を求めない学びは、能力主義の弊害を克服する一助となり、個人の負担を軽減する点で有意義と考えられる。

ChatGPTによる要約

昨日は、学校で知識を教えることはもはや不要であるとの話をしました。

学校が現状のシステムのままではいけない。
そこにいち早く気づいたオードリー・タンの記事です。
特に印象深い一節を紹介します。

エリート教育には別の弊害もあるとサンデルは指摘する。それは、つねに試験によって選別され、厳しい闘いを強いられてきた学生たちの間に「完璧主義後遺症」が生じることだ。好成績を収めて自分の価値を高めようと努めるあまり、心を病んでしまう。この数十年、世界中で青少年のうつ病が増加の一途を辿っている原因がここにある。

オードリーが小学校でいじめを受けていたときに感じた現実も、まったく同じものだった。誰もが順位を競うばかりで、人生に対する好奇心を失っている。

私が受けてきた学校教育もまさにこの流れの中にありました。
成績が良いものがすごい。
だから、少しでも偏差値が上がるように努力する。

でも、本来であれば、多感な時期です。
もっといろんな経験を積んで、視野を広げていくことが大切なはずなのに。

私たちがふだん教育について語るとき、「誰かが正しい答えを独占している」と感じがちだ。しかし、私たちが暮らす世界では状況が絶えず変化している。新たに生じた状況は、これまでの知識体系のなかには組み込まれていないため、既知の対処法をそのまま当てはめて処理することはできない。

模範解答も存在せず、検討と議論を重ねて対処していくしかない。私たち一人ひとりが、いわば知識の空白を埋めるジグソーパズルのピースのようなものだ。ジグソーパズルに、自分が1位だとか誰が2位だとかいう競争の概念はない。一つひとつ、つながり合っていくだけだ。

この考え方を知識論に当てはめてみると、私たち一人ひとりの主観や経験こそが、何物にも代えがたい貴重なものだと言える。全員が同じ内容を100パーセント正確に暗記する必要はない。テクノロジーが発展した現代においては、それはコンピューターが代わりにやってくれる。だが、コンピューターには絶えず変化する世の中に対応する能力はない。

高い偏差値を目指し、全問正解できる人間になるのではなく、
一人一人が持っているそれぞれの答えを持ち寄って、
議論と対話を重ねる中で社会課題に対応していく。
知識はコンピューターが補ってくれる。

であるならば、学校教育はどう変わるべきか。
子供たちがジグソーパズルであることに自信を持ち、
お互いに組み合わさろうとするマインドを育成することこそ、
求められているのではないだろうか。

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