「身心脱落」とは、文字通り「脱落すること」である
かなり前の話だが、ゴーストライターの仕事で取材した高齢の女性から「船旅に行こう」と誘われたことがある。船旅と言っても「豪華客船で行く何日間の旅」とか、そんな派手なやつで、予算もすべて持ってくれる、と言う。「パソコンもあるから仕事もできるし、ビールも飲み放題だから」と熱心に誘ってくる。
彼女は、とある地方の老人ホームに一人で住んでいて、そこに行って泊まりがけで取材をして本にしたわけだが、何でも本音を口にしてしまう人使いが荒い性格だったから、現地ではたいへんなトラブルメーカーらしかった。
老人ホームで働いている人や、一緒に住んでいる高齢者たちでさえ、みな彼女と会うと辟易したり、怒り出したりしてしまうわけだが、なぜか僕は妙に好かれた。「あなたはぼーっとしているように見えて、味のあることを言う人ね」などと褒めたりする。
ぼーっとして見えるのは、仕事上では「自我を落とした状態」で相手の話を受容しているからで、それが世知辛い世の中を生きてきた彼女の気に入ったのかもしれない(知的障害のある息子と共にDVの夫から逃れて、息子が病気で死ぬまで二人で暮らした、といった内容の本だった)。誰のことも信じられず、思うがまま、わがままに生きてきた人だからこそ、そうでないように見えるものにすがりつきたいのだろう。公私を分けたいのもあるが、もちろん、船旅は断った。
「自我を落とす」と言っても、無心になるとかそういうことではない。怒ったり、喜んだり、不安になったり、悲しんだり、自我の反応は常にある。だが、それを自分固有のものではなく、湧き起こる「客観的現象」として他人事のように感じている。
それは実際に自分のものでありながら、自分のものでないのだ、と知っている。だから、その感情を完全に味わうと自分の身体の中心にあるパイプを使って下に落ちてゆき、地面の中に戻って、消えてしまう。
自分のものでないものが、自分の中に留まりようがないのだ。要は、それを頭だけではなく、体で知っているのが、こういう仕事をしていく上でも強みとなっている。
元々、自分は思春期の頃から感受性が極度に強く、ものを考えて、虚無的な否定の海に陥りがちな・・・要は、いろいろな葛藤が溜まりやすい人間であった。だから、いろいろ湧き出てくるのだが、今は大抵の場合、落ちて消えてしまう。劇的な「身心脱落体験」(自己浄化の方法と身心脱落について | MUGA表現研究会 (mugaken.jp))以来、そういう体の構造になっているのだ。
心を揺らし合う勝負である麻雀なんかをやっていると、そうした感情が湧き出しては落ち、湧き出して落ち、と滝のようになっていることもある。そんな時は、その身体原理を楽しんでいる、といってもよいほどだ。当然、葛藤が自分の中に溜まらなければ、物事が明晰に見え、勝負も有利になる。だから、天運によって左右されることは致し方ないとしても、大抵の場合、痛い目を見ることなく勝負を終えることができる。
もちろん、最愛の人の死別とか、そういうことになれば、簡単ではないだろう。長いこと悲しむし、苦しむだろう。だからと言って、最終的には、「自我の底蓋が開いている」ので、自分の中から落ちていくのは知っている(あえて落とさずに一生、抱えて生きることを選ぶかもしれないが、それもまた人の道ではある)。人間には、本質的に絶望というものが存在しないことも知っている。絶望がないことを知っていることが、救済である。人間は、「開かれた生き物」なのだ。
この身体の構造は、禅用語の「身心脱落」という言葉がぴったりくるので、表現手段として使わせてもらっている。一時は、より現在進行形で自分の中から葛藤が滑り落ちるニュアンスで「身心滑落」という言葉に置き換えていたが、やはり「身心脱落」がぴったりくる。
別段、「禅のそれと違う」と言われればそれはそれでいいし、否定も肯定もしない。単に、「心理的蓄積物が自分の中に根付かず、滑り落ちる状態になった」と言い換えてもいい。
そもそも、「悟り」や「身心脱落」という言葉を権威付け、それにこだわるような人は、言葉そのものと矛盾した人生を送っていることの証明なのだ。なぜなら、彼らはその崇高な言葉や、理論、方法論に執着しているからである。自分の中から「落としていない」からである。
さて、「身心脱落」というものについての仏教的、禅的説明をネットや本で調べても、何だか抽象的でよくわからないことばかり書いているな、と正直、思う。これは、実際に解釈して説明する人がそのような境地や感覚にないから、抽象的で、難解な言語で書くしかないのではないだろうか。「悟り」についても同様だが、彼らの言葉のほとんどは、極めて伝統的な範疇を出ず、定型で、観念的なのだ。
身心脱落とは、自分の感覚だと「一切の内的葛藤が自身の中に留まらず、下に下に落ちて消えてゆく感覚そのもの」であり、文字通りの身体感覚をそのまま文字にしただけの言葉である。
とは言っても、自分の場合は道元禅師のように坐禅を組んでそうなったのではなく、日々、瞬間、瞬間、クリシュナムルティの説く「揺れ動く自我をありのままに見つめる動的瞑想」&長年に亘る慢性病がもたらした「激しい痛みの受容と解放」という偶発的なプロセスがミックスされ、たまたま生じた「神秘体験」のようなものによって、勝手にそうなってしまったので、人に教えたり、何かえらそうに言えるものではない……
日本語には「身言葉」というものがある。「骨身を削る」とか、「腰が笑う」とか、「腹を決める」とか、「目が座る」とか、そんな言葉だ。これらは文字通りの身体感覚を文字で表現しただけのことで、「身心脱落」というのも文字通りの感覚のことだと思う。それは「私」という固有の「心」と「体」の感覚が、自身の内から脱落して、下に落ちて消えてしまうことなのだ。
それらは本質的に「私」のものではないので、自分の中に留まらないのは、当然なのである。そして、その固有のものではない「私」は、必ず重力の法則によって、下に落ちてゆく。脱落する。するとその浄化された体の中に何が残るかというと、何も残らない。空性がある。
しかし、その空っぽの場に、自分の中心軸にあるパイプを通ってエネルギーが流れ込んでくるのだ。それは比喩的に言えば、「星のエネルギー」である。この地上どころか、成層圏をも越えた、極めて高いところから降り注ぐ清浄なエネルギーである。そのエネルギーが人の内部にこびりついた自我の残滓をも浄化し、自我の葛藤から来るのではない活力と創造性を与える。そんな手に取れるような確かな感覚が、神秘体験を終わった今も、ある。いや、厳密に言えば、「創造的な流れ」のようなものを感じている。その流れは自分の中に留まるものではなく、常に「世界」に流れているものである。
しかし、重要なのは、こうしたエネルギーの感覚よりも、「自分の中に生まれる感情が自分固有のものではない」という認識であり、心身の構造の変容である。
認識と構造の変化は、存在それ自体のあり様を変えてしまうので、常に、身心脱落の方法論を生きることもできるし、使うこともできる。それは仕事の場や、自分の場合は麻雀などの勝負事をする時に、一つの技術としても応用できる。実際に、「葛藤が脱落し、滑り落ちる」わけだから、決して観念的なものではないし、ましてや、坐禅をしている時だけのものではないのである。
ちなみにクンダリーニの上昇等、上に昇るエネルギーを表現した著作や、ネットの記事はたまに見かけるが、身心脱落系の下に落ちてゆくエネルギーや、上から降り注ぐエネルギー、この身体構造の変容について明言したり、まともに表現されているものを見つけたことがないのは残念だ。
重要なのは、固定的な真実の言葉でも、体系でも、観念でもない。
今、現在の身体構造の意識がどうなっているか、すなわちそれによって「何を表現できているか」である。
「自分の言葉を持っているか」である。
観念の時代は終わり、「表現の時代」が始まろうとしている。
(アメブロ掲載記事2012年・改稿)