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中国皇后記3 政略結婚から生まれた愛·明元昭哀皇后姚氏(めいげんしょうあいこうごうようし)
中国皇后の世界へようこそ。前回はドラマ「上陽賦」のモデルとなった皇后を紹介させていただきました。今回もよろしければお付き合い下さい。
初めに
突然ですが、みなさんは北魏(ほくぎ)の明元帝(めいげんてい)をご存じでしょうか?北魏は三国志の三国が滅びた後の戦乱の時代·五胡十六国(ごこしゅうろっこく)時代の大国です。北魏は王女未央の舞台でもありますね。
二代皇帝·拓跋嗣(たくばつし)は、北魏の初代皇帝の道武帝(どうぶてい)の長男で、宣穆劉皇后(せんぼくりゅうこうごう)の息子です。また、子は大武帝(たいぶてい)であり、有名な二人の皇帝に挟まれた明元帝は影が薄いような気がします。しかし、賢明であった明元帝は国を良く治めた名君でした。今回はそんな明元帝が愛した皇后のお話をします。資料の少ない皇后ですので、短めとなっております。
昭哀姚皇后とは?
昭哀姚皇后(しょうあいようこうごう)は、明元帝の追贈皇后で後秦の文桓帝(ぶんこうてい)の娘でした。明元は夫の諡号です。生まれた年、名前、生母は不詳ですが、末子として生まれ、西平公主(さいへいこうしゅ)に封じられました。
時は五胡十六国時代の最中。多くの国が生まれ、覇権を争っていました。415年、北魏と後秦は和平を結びます。姚氏は和平の為に明元帝に嫁がされます。いわば政略結婚ですね。当時の婚姻の年齢は15ほど。姚氏の出生は400年により前ということになりますでしょうか。ちなみに明元帝は23歳でした。
姚氏ははじめ、夫人に封じられました。北魏の習わしである皇后の金人が立たなかった為です。明元帝には五人の側室と、何人かの息子と娘がいましたが、姚氏は深く寵愛を受けました。政略結婚にしては珍しいことですね。
そんな日々の中、姚氏の父・文桓帝が死去。祖国は滅亡の危機にさらされました。姚氏はそれでも北魏に留まり、夫を支えました。敵国が多く、戦乱にあけ来る日々を過ごしていた明元帝にとって、姚氏は癒しであり、良き妻であったのでしょう。明元帝は姚氏を皇后にすることを諦めませんでしたが、姚氏は習わしに反すると、へりくだって受けようとしませんでした。しかし、姚氏の後宮や各地での礼遇は皇后と同等なものでした。
時は過ぎ去り、423年の12月。明元帝は心労がもとで早世します。翎浅の創作となりますが、明元帝の早世は姚氏の死が関わっているように思います。
3年前の420年5月、姚氏は亡くなっています。明元帝の享年が31歳なのを考えると、姚氏は20代で若かったはず。明元帝は姚氏を悼んでやまず、皇后の璽綬を贈り、正室としました。さらに昭哀皇后という諡号を贈り、明元帝の雲中金陵へ共に葬られました。"昭"は徳をもって世を照らした`哀‘はその者の死を悲しんだことを表しています。史書では夫の諡号を冠して、明元昭哀皇后とされています。明元帝が最も愛した女人なのは、間違えないのではないでしょうか?
まとめ
短くも愛され、誇り高く生きた女性でしたね。個人的にとても好きな皇后です!資料が少ないのが悲しい…。というわけで、以上とさせていただきます。