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中国皇后記10 対照的な2人の女性·献文皇后 羊献容と貞定妃 王恵風

 こんにちは、翎浅(れいせん)と申します。中国皇后記、記念すべき10回目のブログとなりました。翎浅と同じように、中国の歴史が好きな方がいらっしゃることに、喜びを感じています。見てくださる皆様、本当にありがとうございます。スキを押してくださった皆様、いつも心が温かくなります!ありがとうございます。これからも改善しながら、より様々な人物を知っていただけるように頑張っていきます!
 それでは、本題に入りましょう。今回は、五胡十六国時代の皇后であり、2人の皇帝に嫁いだ稀有な皇后·羊献容(ようけんよう)と貞定妃·王恵風(おうけいふう)の人生を紹介いたします。2人の生き様はまるで違っていて、興味深いです。どちらが優れているとかではありません。
※王恵風は皇后ではありませんが、羊献容を語る上で紹介します。


1 羊献容の生い立ち

 2人は同じ時代に生きていた女性で東晋の前の王朝である、西晋の地で生まれました。まずは、羊献容について生い立ちを紹介します!
 献文皇后・羊献容(?〜322年)は、西晋・恵帝(259年〜307年)の皇后で前趙という国の皇后となった人物です。中国史上唯一、2つの王朝の皇后となった女性です。尚書右僕射·羊玄之(ようげんし)と妻·孫氏の娘として生れました。中国歴史上美しい皇后の一人として、名が挙がっています。また、献容は聡明でした。献容は政治的な理由から、時の皇帝である恵帝に嫁ぐことになります。間もなく皇后に立てられ、2人の間には1人の公主が生れました。恵帝の皇后として、賈南風(かなんふう、257年〜300年)が有名です。献容は賈南風が廃された後の継室だったのです。この時期は八王の乱の真っ只中、暗愚な夫が原因で献容は運命に翻弄されることとなります。献容は夫が皇帝を廃され、復位するたびに幾度も廃后並びに復后を繰り返します。献容は妻子どころか自分すら守れない夫に失望し、嫌気を感じていたでしょう。最終的に夫が崩御し、恵帝の弟である懐帝が即位します。献容は懐帝が即位すると、自身が皇太后になれないことに不満を持ったそうですが、その野望は実現しませんでした。献容には野心的な一面があったようにも思えます。恵皇后の尊号を与えられました。それから5年後のある日、前趙が西晋に侵攻し、住んでいた洛陽は陥落。献容は前趙軍に捕らえられ、連れ去られてしまいます。これが世にいう永嘉の乱と呼ばれる出来事でした。この出来事が献容の人生を大きく変えることとなるのです。

献容の図

 前趙とは、匈奴(きょうど)の劉一族が治める国。彼らは元遊牧民であり、少なくとも漢族ではありませんでした。献容は異文化な場所に連れて行かれ、身の危険を感じたことでしょう。しかし、彼女は運命の相手に出会います。将軍・劉曜(りゅうよう、275年〜329年)に見初められてその継妻となりました。劉曜は文武に優れ、性格は大胆であったそうです。恵帝とは正反対、比べ物にならないくらい有能で献容をしっかりと守ってくれます。献容も心惹かれるのも納得です。劉曜は献容を深く愛し、やがて献容は劉曜との間に3人の息子を生みました。そして、劉曜は皇帝に即位します。献容は皇后となり、これが実に7回目の皇后即位でした。息子は太子に冊封されました。劉曜はある日、「私は司馬家の男(恵帝)と比べてどうだ?」と献容に尋ねました。すると、献容はこう答えました。「比べる必要がありますか?陛下は開業の聖主ですが、司馬家の男は亡国の暗主に過ぎません。彼は妻子の身は疎か、自身の身も守れませんでした。私は多くの屈辱を味わい、死にたいと願ったほどでございます。天下の男は皆、このようなものなのかと感じました。しかし、陛下と出会って初めて天下に大丈夫(立派な男子という意味)がいることを知りました」この言葉を聞いた劉曜は喜び、献容への寵愛っぷりはより深くなっていきました。献容は後宮を治めるにとどまらず、政治にも深く干渉するようになります。これには、不満を持つ者も多かったようです。献容は332年、即位からわずか4年で逝去しました。劉曜は深く悲しみ、献文皇后と追贈しました。劉曜は巨大な陵墓を作らせると、献容を埋葬して墓号を顕平陵としました。劉曜の’愛妻’だった献容。運命に翻弄されながらも、最後はしっかりと自分の幸せを掴むことができました。

2 王恵風の生い立ち

 次は王恵風の生い立ちについて。貞定妃・王恵風(?〜311年)は恵帝の息子である愍懐太子・司馬遹(いばいつ、278年〜300年)の妃でした。献容とはいわば、嫁姑関係でした。恵風の夫が亡くなった後の皇后なので、実際は会ったことはないのかも知れません。出生は、名門・琅邪王氏。大尉・王衍(おうえん)と正妻・郭氏との間に生まれました。兄弟に王玄(げん)、姉に王景風(けいふう)、妹が1人いました。本名は晋賢(しんけん)で、字が残っているだけでも珍しい女性史で、諱まで分かっているなんてすごすぎる!恵風はとびきりな美女ではありませんでしたが、清らかで貞婉、志操堅固な性格の持ち主でした。一方の恵風の姉は、花のような美女として有名で国色天香(国一番の美女)と称されました。恵風は容姿に関して、姉と比べられる生活を送りました。しかし、どんなに美貌に秀でていても、史書に名が残ったのは、徳に優れた恵風の方でした。彼女の人生はどのようなものだったのでしょうか? 
 太子は剛烈な性格で、幼い頃から聡明だったため、"宣帝(司馬懿)のようだ“と尊敬されました。しかし成長すると、遊び呆けるようになります。これは嫡母·賈南風が彼を暗愚にさせるため、養育係に遊ばせるように命じた策でした。時に太子も賈南風と対立していました。彼が実子ではなく謝妃の子で、評判が良かったのが理由で賈南風は彼を忌み嫌っていました。太子も父に代わり、宮廷を牛耳る嫡母を嫌っていました。賈南風の母は2人の仲が険悪なことを危惧し、自身の孫を太子妃にしようと画策しました。太子も賈南風の親戚となり、自身の地位を安定させることを望みました。しかし、太子と距離を置きたい賈南風らの反対で実現しません。太子はせめて娶るならば、綺麗な女性をと願い、賈南風の従姉妹の子である王景風が絶世の美女だという噂を耳にしました。しかし、賈南風はわざと同時期に景風を賈南風の甥と婚約させてしまいました。最終的に太子は、賈南風の仲介で妹の恵風と婚約しました。恵風は十分美しかったですが姉の景風が美しすぎたために、太子は不満に思いました。(最低ですが、太子が2番手扱いというのもまた無礼でもあります)この婚姻で両者の関係が改善することはなく、逆に対立を深めることとなるのです。恵風と太子の結婚生活は、良いものではありませんでした。太子は賈南風の所業に腹を立て、意中の相手と結婚出来なかったことに失望し、婚姻の日から恵風を冷遇し、側室の蔣俊(しょうしゅん)を非常に寵愛しました。彼女との間に3人の息子をもうけ、賞賜は多大なものでした。

恵風の図

 結婚から数年が経ち、陰謀の魔の手が太子に忍び寄っていました。恵帝が発病し、太子はその見舞いに宮中に向かいました。しかし、太子は別室に連れ出され、婢女が陛下から賜ったと称した酔棗(よいなつめ?、棗の酒漬けでおそらくアルコール濃度が30%以上)を食べさせ、太子は酩酊状態になってしまいます。賈南風は黄門侍郎潘安に「私は母妃と協議し、陛下(恵帝)と賈皇后を廃す事を決めた。その後、我が子を王に立て、蔣俊を皇后とする」という文章を書かせると、司馬遹に筆と紙を渡し、詔と偽って同じ内容を書くよう命じました。太子は内容も分からず書き、字の半分は読めなかったので、修正して恵帝に訴状として提出しました。賈南風に逆らう勇気があったのは数人しかおらず、恵帝も逆らえない者の1人でした。賈南風は太子を庶人にするように言い、恵帝はそれに同意しました。こうして太子は、無実の謀逆罪を着せられ、庶人に落とされました。これが太子と恵風の最後の瞬間でした。またこの時、太子の母・謝妃と蔣俊は謀叛罪で殺害されました。太子は監禁される前、唯一監禁されなかった恵風に手紙を残していました。内容は自身が冤罪であることと、3人の息子の面倒を見てほしいというものでした。普通、自分を冷遇した者の手助けはしたくないです。しかし、恵風は辛い目に遭っている夫を助けたいと願い、息子たちを預かり、父に太子を救うように懇願しました。しかし、ある宦官の偽の自首によって太子の罪は明らかなものとなり、恵風の父は巻き込まれるのを危惧し、太子と恵風の離婚を上奏したのです。恵風は離婚を望まず、無情な父に反発しましたが、皇帝の詔に逆らうことは出来ず、泣く泣く実家に帰ることになりました。3人の息子は太子の元に送られ、恵風は何も守れなかった自分を責め、太子と離婚しなければいけないことを大いに悲しみ、泣きながら家に帰りました。その様子はとても痛々しく、見た人々も涙を流すほどでした。300年、太子は殺害されました。享年23。この太子殺害により間もなく、賈南風は殺害され、一族も粛清されました。そして、皇后の後任に先述の献容が選ばれました。その後の恵風は誰とも再婚せず、時が経つこととなります。ちなみに太子の息子たちは皇太孫となりましたが、全員夭折しました。 
 そして11年後、永嘉の乱が起こりました。恵風もその難に巻き込まれてしまいます。恵風も献容と同じように前趙軍に捕らえられ、連れ去られてしまいます。彼女も劉曜に謁見したでしょう。しかし、幸せを掴んだのは献容ただ1人でした。恵風は劉曜の配下の将に下賜されました。将は非常に喜び、妻に迎えようとしました。しかし、恵風は激怒して剣を抜いて「私は名門の生まれで宰相の娘、そして皇太子の妻です!あなたのような逆賊の手中に落ちるなどというなぐさめは受けません!」と罵倒し、怒った将によって殺害されました。東晋王朝により彼女の貞節を讃え、貞定妃と追贈されました。 
 ここで少し想像が入ります…。やはり恵風が太子に対して忠実な理由が不足していると思い、他の方の意見(百度百科の資料参考)を取り入れて見解をまとめました。太子と結婚した恵風は白目を向けられながらも、妻としての義務を果たすために最善を尽くし、夫に従順に太子府をうまく治めていました。時間が経つにつれ、太子は自分の態度を恥ずかしく感じ、それを改めて恵風に優しく接するようになり、お互いに恩愛の情を持つようになりました…というように2人の関係に何らかの進展があったと考えるのが自然でしょうか。まあ、太子のなくなる年にも蔣俊の息子が生まれていますから、微妙ではあります。 蹈節死義(正義を貫き通して、節操を守ったまま死ぬこと)な最後で、芯のある強い女性でした。彼女の最後は悲しいですが、非常に誇り高いです。

3  それぞれの人生を踏まえて

 2人は同じような時代に生きながらも、生き方が全く異なりました。2人が大きく違うのは、夫を亡くした人生の後半です。献容は恵帝が亡くなり、永嘉の乱に巻き込まれて劉曜と出会い、命尽きるその時まで愛されました。恵風は太子に愛されず死別し、その死を嘆きました。永嘉の乱が起こると、一端の将軍に下賜されますが、太子に忠節を示して亡くなりました。現代になるまでは、貞烈な恵風が称えられてきたわけですが、現代の価値観でいうと、献容の生き様にも理解が示されるようになります。献容側から見ると、暗愚な恵帝のように、愚かで不徳な恵風の夫には、彼女の素晴らしい忠節を示す価値が果してあるのかという意見があります。一方で、恵風側から見ると、献容の生き様は貞節がなく負心であるという意見があります。古代中国には、貞節を貫くことが美徳であるとされていました。貞節牌坊を送られて、称えられました。しかし、その風潮に苦しむ女性も多く、現代では献容の考え方の方が理解されやすいでしょう。しかし、恵風は夫だけでなく、国にも忠義を示し、その勇気と忠節は軽視されるものではありません。それぞれの人生を理解した上で、どちらが良いではなく2人、は別々の意味で、歴史に名を残した女性であると認識していただけたらと嬉しいです。

まとめ

 今回は2人の女性の人生を紹介いたしました!この2人はよく比較されがちですが、それぞれに理解を示せたので、書いて良かったと思っています。どちらの女性も好きになってくださったら、嬉しいです。1つ言えるのは、西晋の皇族はダメ男ばかりということでした。東晋の皇族を見習ってほしいものです(笑)それでは以上で終わりとさせていただきます。
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