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現在のイスラエル紛争の背景 前編


皆さんこんばんは。

2023年10月から始まったイスラエルとパレスチナの紛争は現在、戦火を広げてイランも参戦することとなりました。
今後、ロシアやサウジアラビア、エジプトなど他の近隣諸国をも巻き込んでいく可能性があります。
これらの大国が参戦することとなれば、それは第三次世界大戦を意味しており、遠く離れたここ日本に住む我々にも二次的・三次的な影響が及ぶでしょう。

既に1年を経過していますが、私がこれまでに得た「ユダヤやパレスチナの歴史」の知識を基にこの紛争が起きた経緯を簡単に整理してみたいと思います。


参照したサイト・書籍はこちらです↓


イスラエルとは

まずは紛争のプレーヤーである"1948年に建国したイスラエル"という国家に関して話していきたいと思います。
今のイスラエルという国とパレスチナ自治区、ガザ地区、ヨルダン川西岸地区が存在する場所は元々、「パレスチナ」と呼ばれていました。下の画像ですと、緑とオレンジ色が塗られている地域がそれです。
聖書にでてくる「カナンの地」もこれらの地域一帯を指しています。

現在の境界線
パレスチナが縮小する過程


聖書によると"カナンの地"とは、アブラハムと奥さんのサラが聖書に登場する神から「この広大な土地は全てお前とお前の子孫のものだ」と言われ、2人はアラブ人の太祖であるイシュマエルを産み、十二支族の祖先となるヤコブやヨセフが家系から誕生します。
十二支族(アブラハムの子孫たち)や古代イスラエル人らは、神から言われた通り、広大な土地=カナンの地で繁栄していきました。

とても重要なことなので誤解のないように説明すると、「イスラエル」という言葉が最初に使われたのは、十二支族のうちユダ族を除くベニヤミン族のサウルが作った、エシュバアル王国(イスラエル共同体)だとされており、この時はまだイスラエルという国家ではありません。
初めて"イスラエルという国"となったのは、ユダ族のダビデがエシュバアル王国の王であるエシュバアルと将軍のアブネルを殺害し、エシュバアル王国(イスラエル共同体)をユダ族側に吸収する形で新たに、「イスラエル王国」となりました。
その後は、周知の通りダビデ〜ソロモンの時代に、イスラエルは最も繁栄した時代を過ごします。

もう2点付け加えると、「イスラエル」という言葉が残っている最も古い考古物は、エジプト王ファラオの息子メルヘンプタハの碑文であり、その碑文に「イスラエル」と書かれています。これは、聖書で描かれている"出エジプト"の時期と考えられます。
また、創世記32章にイスラエルという名称は『エル戦い給う(たまう』からきているとも書かれています。

以上3点が、正史的かつ一般的に解釈される「イスラエル」という言葉の起源でしょう。
現在メディアで見られる「イスラエル」という言葉は古くから存在しており、その言葉の意味も現在の🇮🇱とは違います。ココを踏まえて考察していきますので、その時々によって「イスラエル」という言葉が当てられた対象は違うという事を整理しながらお読みください。


オスマン帝国崩壊〜英国の介入

時は進んで1917年、この年はオスマン帝国が崩壊した年です。最初に説明したカナンの地がアブラハムに与えられたのは3000年以上も前であり、以降様々な人種がこの地を支配してきました。
紀元後636年〜1036年と1291年〜1517年の期間をアラブ人(マムルーク朝)とイスラム教徒が支配し、この地を「パレスチナ」と名づけました。1099年〜1291年までは十字軍が支配し、1517年〜1917年までがオスマン帝国の支配下です。
「パレスチナ」の語源ですが、意味は『ペリシテ人の土地』です。今から約3300〜3200前に『海の民(ギリシャ系)』と呼ばれるエーゲ海から地中海東部に侵入した民族大移動が行われ、その中にペリシテ人(旧約聖書にはペリシテ人が契約の箱を盗み災いに苦しんだ為、返したと記述がある)がいました。彼等は、エジプト軍に敗れて、パレスチナ沿岸に定着し、まだイスラエル共同体がカナンの地に定着する前にカナンの地にあった30以上の都市国家を次々と没落させています。
イスラエル共同体は常に、このペリシテ人の脅威に晒されながら半遊牧民から農耕民へと変化して、王制を導入し共同体を作っていきました。
エルサレムがローマの支配下にあった頃、ローマ人がペリシテ人の土地を『フィリスチア』と呼んだことから「パレスチナ」という言葉が誕生しています。

注意点として、ローマ人が名付けた「フィリスチア(パレスチナ)」という言葉と現在のパレスチナ自治区の名称に使われている「パレスチナ」は全く関係ありません。

オレンジ色がオスマン帝国の支配下


一言で言うと、オスマン帝国の崩壊は英国、特にシオニスト達による策略による面がとても大きいです。
シオニストとは、簡単に言えば『祖先の地にユダヤ人を入植させてユダヤ国家を作る』運動を支持、実行する人たちを指します。シオニズムはその運動を指します。これは1890年代頃には計画が始まっていました。

その肝心な『祖先の地』が所謂オスマン帝国が当時支配していたパレスチナであり、この土地を支配下に置くためにはオスマン帝国を崩壊させなければなりません。しかし、オスマン帝国は強大なので簡単には牙城は崩せません。
そこで、鍵となったのが『アラビアのロレンス』ことMI6のロレンス大佐です。この方は、大学卒業後に恩師の大英博物館の調査隊に参加して考古学の仕事を始め、その時に、英国陸軍省から依頼を受けてネゲブ砂漠の地図を作成しています。第一次大戦時英国陸軍省作戦地図課に配属され出世していき、大尉になった時に旅行したアラビア半島でオスマン帝国に反旗を翻そうとするグループと接触します。そこで計画が練られ、彼は鉄道線沿を爆破させていくという奇襲攻撃を実際に指揮しました。これが、映画の元にもなっている『アラビアのロレンス』です。

トーマス・エドワード・ロレンス
映画『アラビアのロレンス』



そして、オスマン帝国崩壊後スムーズに英国がパレスチナへ干渉できるよう行ったのが「三枚舌外交」です。所謂、『マクマホン協定』『サイクス・ピコ協定』ですが、マクマホンの方はアラブ人に対して「お前達が英国に加担してオスマン帝国と戦い、英国が勝てばお前らにアラブ国家建設とパレスチナへのアラブ人入植を許可する」と約束したもの。
※ちなみに、この「アラブ国家建設」にパレスチナは含まれていません。つまり、パレスチナはオスマン帝国の支配から逃れても当時のパレスチナ人たちが自分たちの国、「パレスチナ」という国家を作ることは約束に含まれていなかったわけです。

一方、サイクス・ピコの方はオスマン帝国崩壊後のアラブ地域の分割を英仏露が決定したもので、矛盾の行動をしています。
➡️マクマホンとは、イギリスの駐エジプト弁務官で、彼がメッカの領主フサインというエジプトやオスマン帝国がアラブ地域を支配していた時代に属領として与えられたヒジャーズ王国を支配していたハシーム家という一族の者と契約したことから『マクマホン協定』と言われます。


もう1つ、裏で進めていた"準備"としてバルフォア宣言が挙げられます。これはもう、多くの方が知っているところです。
このバルフォア宣言、実は、公式な文書ではなく当時議員だったロスチャイルド卿と英外交官バルフォアが密通して署名した宣言です。というか、国会も通してないため「宣言」ではありませんが…。署名したのがこの2人というだけであって、他のシオニスト関連の人物なども文書作成には関わっています。
宣言の内容は、

"英国政府はパレスチナにユダヤの国家を作ることを賛成し、実現に向けて努力する"

バルフォア宣言

と、いった内容です。

こうした事前の準備を裏では着々と進めていて、いざ、1917年にオスマン帝国を崩壊した直後には英国将軍エドモンド・アレンビーがバルフォア宣言に基づいてエルサレム(パレスチナの聖都)に入城しました。
そして、この宣言は後に形を変えます。

2年後の1919年、国連規約第22条は、

"旧トルコ帝国に属する地域に住んでいた人々が「英国の委任統治」によって、最終的に独立できる"

国連規約第22条

と、明記・変更されました。
鉤括弧の部分を導入するための根拠・裏付けとして、バルフォア宣言を作成したわけです。

バルフォアがロスチャイルド卿に送った文書。現在、英国博文館に保管されている。


そして、最終的に修正されて文書では、

"委任統治国はパレスチナを、ユダヤ国家建設と機構を発達させるための条件を整える必要がある。パレスチナ住民の宗教的権利が保護されていないといけない"

と、明記されました。1922年に国際連盟が英国の委任統治を正式に承認し、建前上は「復興のためのお手伝い」ですが、自らの野望であるユダヤ国家建設を実現する口実が正式に与えられたわけです。
以後、ロシアとポーランドからハザール系ユダヤ人が流入してきます。

➡️「ハザール」とは?
ハザール族(騎馬民族)が7世紀に建国したハザリアという国。ビザンチン帝国のバシリウス1世の時代にユダヤ人迫害が厳しくなり、多くのユダヤ人がハザリアへ逃げ込む。
ハザリアの王と支配者らは、後にユダヤ教へ改宗し、十字軍がエルサレムからお宝を盗んでヴィネチアへ運ぶ際に援助したと言われている。


パレスチナへの4回の大量移住


オスマン帝国が崩壊し英国の管理下に置かれたパレスチナですが、当時そこに住んでいたパレスチナ人は何が起きているのか、状況を正確に把握していなかったでしょう。ユダヤ人がパレスチナに入植してくるという、約束したことと違うことが起きていたからです。
※オスマン帝国時代からユダヤ人の流入はありましたが、本格的に流入するのは英国の委任統治が始まってからイスラエル建国にかけてです。

見出しに書いてるようにパレスチナへの移住で規模が大きかったのは4回で、その他にも小規模の移住は1948年イスラエル建国まで、常に行われていたでしょう。

まず、第一次移住が東ヨーロッパで一般社会に同化する事は不可能だ、と感じたグループ「ビールー(ユダヤ人帰還の理想主義者)」主導の移住です。
19世紀後半〜20世紀にかけてロシアでは、ポグロムと呼ばれるユダヤ人の計画的虐殺が行われており、東ヨーロッパのユダヤ人の間では他国への移住が考えられていました。反対に、西ヨーロッパのユダヤ人は非ユダヤ人との融合を第一の目標にしていました。
また、この頃はシオニズムの父テオドール・ヘルツルが第1回シオニスト会議を行ったり、『ユダヤ人国家』を発行したりと、ユダヤ民族主義を国際的な動きにしようと試みている時期であり、東ヨーロッパのユダヤ人から支持されています。

テオドール・ヘルツル


第二次移住は、ロシア革命失敗後。この時の移住者も殆どが、理想主義です。

第三次移住は、第一次大戦直後でこの時はポーランドから大量に流入しました。第四次もポーランドからの流入が殆どで、1939年ナチスが侵攻後にはドイツ国内で採った反ユダヤ政策をポーランドでも行い(当時ヨーロッパ最大の320万人のユダヤ人が居ました)、加えてホロコーストもユダヤ人をパレスチナへ移住させるための手段として利用しました(私はそのように考えています)。


アラブ人とユダヤ人の攻防

既に説明した通り、パレスチナにはオスマン帝国時代から住んでいる「アラブ人」が居て、彼等はユダヤ人入植を拒み続けました。それに対して、入植を続けた上に元々住んでいた人たちの領土を取り上げているのが、現在のイスラエルの権力を握っている人たちやその流れを汲む人たちです。

鉤括弧で「アラブ人」と書きましたが、ここで言うアラブ人とは、オスマン帝国支配後、あるいはそれ以前のマムルーク朝やイスラム教徒がパレスチナを支配していた時代にイスラム教の文化や習慣を取り入れていった人たちのことです。また、アラブ人の支配下に置かれる前に住んでいたパレスチナ人も何世代も経てアラブ人との混血をしていたでしょうし、一部の方々が発信している『パレスチナには古代ユダヤ人の流れがずっと続いている!』という言説はあり得ません。捕囚にも遭いましたし、様々な民族がパレスチナを支配しているのでその都度様々な文化や宗教、習慣を取り入れてるはずだからです。

ここで『ユダヤ人とは何か?』という問題に差し掛かろうとしていますが、これはあまりにも
複雑で今の私の実力ではきちんと説明は出来ないため割愛します。


1921年、アラブ人は最初の反抗を行います。それ以降、何度もユダヤ人入植を阻止するために反抗しています。
こうした泥沼化した状況を"再検討"するべくピール委員会が設置され、「ユダヤ人とアラブ人の折り合いは不可能でパレスチナは両者に分割される」という結論が出されました。この結論を1947年に国連が決議案を通して、可決。
しかし、アラブ側が反対したので(当然です)実施はされていません。



何十年とかけて行ってきたシオニズム運動計画は失敗したと判断したのか、何も解決していないこんな状況下で1948年英国は責任を放棄し、パレスチナから撤退します。残されたのは複雑な問題と荒らされた土地と市民です。

英国という管理者がいなくなったので、「ユダヤ人国家の建設」という役目を負った自称"ユダヤ人"たちは(この人たちは主にアシュケナジー系ユダヤ人と言われており、歴史的には自分の兄弟を殺そうとし「お前の子孫は一生呪われる」と、ノアから言われたセム・ハム・ヤフェテのうちのハム系の流れを汲む人たちです=ちょっと邪悪な人たち)、思う存分ユダヤ人国家建設に向けて働き、1948年に早速、現在の「イスラエル🇮🇱」という国家を"無理やり"つくりました。
建国の翌日には、第一次中東戦争が勃発しました。「中東戦争」と聞くと、どちらにも正義があってその正義と正義がぶつかっているようにイメージしてしまいそうですが、本質的に言えばアラブ人側の「反抗」が的確な表現でしょう。
そして、この「反抗」が第四次まで続き、問題の複雑さは増していき、その過程でPLOやパレスチナ難民が誕生していきます。

➡️「東欧系ユダヤ人」とは?
シャルルマーニュの時代に、当時西ヨーロッパで最初の永続性のあるユダヤ人社会がシチリアと南イタリアに出現。彼等の商人としての技量を買って、ドイツのマインツやケルン、ライン地方に移住して商業を活発にしてくれと奨励。この地方一帯がヘブライ語でアシュケナジムと呼ばれたので、自らをそう呼称した。


最後に


イスラエル紛争の背景という記事は長くなるため、2つに分けたいと思います。
今回はイスラエル紛争を読み解く上で必要なれきしてきな背景を重点的にまとめてみました。次回は、第一次中東戦争から現在の紛争に至るまでのより"具体的かつ細かい話"になります。「歴史」の話から外交や戦争などの「政治」の話に移っていきます。
今回の記事が読者の考察に役に立てれば幸いです。ご精読いただきありがとうございました。

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