私たちの歴史 大人と子供の違い
最近、よく大人と子供の違いについて考えてしまう
仕事で高校生や就活生と話す機会が多いからか
それとも30手前にして、やっと自分が大人になろうとしてるのか
(それはイヤだけど…)
考え方はいくらでもあると思うけど
私が考えていたのは「判断基準」だ
今、仕事や活動をする上である程度
自分の経験値から、物事を判断ができる(様になったはず)
もちろん、最初はやっぱり何もできなくて
メールの返事すらまともに出来ず、何度も先輩や上司に怒られていた
失敗を少しづつ成長ができたんだと思う
同時にできなくなったことも多くなった気がする
たとえば、
無茶をすること
自分の楽しさを優先すること
人に反発すること
自分の考えを突き通すこと
若い頃、幼い頃には出来ていた(やってしまっていた)
高校・大学の時はひたすら部活サークルに打ち込み
毎日毎日、飲み会に明け暮れて 学生の本分である勉強は全くせず
ギリギリ卒業できるかどうかの瀬戸際になったり
先輩に対して、生意気にもダメ出しや説教じみた事を言って嫌厭された事もある
(バカにも程がある)
一般論で考えると
別に今したい訳じゃないが、それができた自分の“若さ“に憧れを持ってしまう
今、それをしないのは、してはいけない事だと今なら判断できる
社会に出たことで、それまで以上に沢山の人たちと触れ合い
自分や他人の基準とレベルに気づき
自分も含め、人にはそれぞれの歴史があることを自覚したからだ
当時は自分のいるコミュニティーだけが全てだと思い
そこでの立ち位置だけに執着していた
自分の世界が小さかったのだ
世界が広くなり、それを動かす社会の一部になったことで大人になる
と考えていた
前段が長くなったが、最近考えているのは
“人の歴史“の部分だ
自分が無茶をしたり、人に衝突しなくなったのは
その代償を叩きつけられ、骨の髄まで味わったからだ
その苦さを覚えているから、もう口にしないように生きている
初めての事でも、その味を思い出し回避をするのだ
若い頃は何が苦い物なのかがわからない
だから、甘いな激物を追い求めてしまう
そして激物の代償により
汚れ、傷つき、ダメージを受けて回避することを覚える
子供とは汚れも傷もない真っ白な状態なのだろう
それが生きて行くうちにボロボロになっていく
時には致命傷になることもあるだろう
突然、致命傷を受け、立ち上がれなくならない様、
もしくは致命傷を受けてもまた立ち上げれる様、
先人たちが残してきた沢山の言葉を、仮の判断基準にする事を
「座右の銘」と言うのでしょう
その一つ一つの汚れや傷を隠してはいけない
せめて、自分だけにでも
時間をかけてゆっくりと見つめていくと
愛着も湧くかも知れない
手のひらに刺さった鉛筆の芯の様に自慢できるかも知れない
それらを自分が生きてきた歴史なのだから
書いてわかった。やっぱり私まだ大人になる途中なんだ