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【年越しの祈り】悔い改めのご利益

みなさまお久しぶりです✋
ゼノ哲学です。
仕事が忙しくなり更新が停滞モードだったんですが、最近少しだけ時間ができましたので、今日は少しプライベートモードでお送りしようかと思います(笑)

諸事情で定期的に京都に通っているんですが、今日は長岡京の喫茶店でモーニングをしてきました。わたくしはモーニングを食べながら読書することが大好きでして😊


喫茶フルール

モーニングのBを頼んでみました。スクランブルエッグもりもりの卵サンド。レトロで老舗な雰囲気もどストライク😆パンの生地も柔らかく美味しさが身に沁みる~。

ちなみに今は『脳が強くなる食事』という本を読んでいます。


さて。
お腹も満たして用を済ませた後は、バスに揺られながら光明寺へ。


光明寺

光明寺の歴史を少し解説しますと、中世の頃、京都は故人である法然上人の思想が世に拡がっていた頃でした。
敵対していた比叡山の僧が法然派の勢いを阻止するために法然上人の墓を掘り起こしてお骨を川に捨てようとしたそうです。科学がない当時は、昔の人は思想が拡がる理由を骨にあると発想したようですね👀そこで法然上人の弟子たちは、お骨が納められた石棺を太秦にいったん写したことで阻止。翌年石棺から複数の光明が放たれ南西の念仏三昧院を照らしたことから、今日までお骨が光明寺に納められているそうです。

石棺


光明寺の入り口の門の手前には『修正会』という文字が。


修正会は修二会と似ていて、ネストリウス派キリスト教が景教という形で日本に入ってきたころ、仏教に悔い改めとして悔過の儀式を盛り込みました。

ネストリウス派キリスト教については、こよかったらこちらもご参照ください🙇‍♀

修二会は平安時代頃から現代まで、災害だろうが戦中だろうが、何が何でも続けられている行事だったりしています。総理大臣など国のTOPも参加しているようですが、修正会は庶民verといった感じで政府ではなく地域の祭り事として扱われていたようです。
修二会の前の姿が修正会で本来なら庶民のものだったと言われていたりもしますが、どうでしょう?外国の文化が日本に入ってくるとき、国内で評判も聞かないものを政府が快く受け入れようとするでしょうか。先に国民の間で流行り、その後、政府が取り入れたと考えるほうが自然なんじゃないかと個人的には思います。宗教戦争が盛んだったこともあり、庶民の修正会は弾圧によって淘汰されたと見るべきかもしれませんが、聖書的見解であれば、民の怠惰によって廃れていったとも言えそうです。

当時の修二会の悔い改めは、民に対して悔い改めで、仏(神)に懺悔してから翌年の政治に挑んでいたそう。現在、その意が引き継がれているかは不明ですが、日本という国体が続いているのも、この修二会が続けられているからではないかとも思っています。


というのもここ光明寺も悔い改めからはじまっているからです。
そして悔い改め行事である修正会が今も残っています。
法然上人の骨は光明寺に移されてから、再び掘り起こしをされることもなく今まで守られてきました。場所を変えただけで守られるなんて摩訶不思議ですよね。比叡山の宗派でも太刀打ちできない立場の人々がいたのでしょうか🤔
それにしても、西洋は思想の広がり(見えない力)を神の予言とか掲示とかで考えたりしますが、仏教は遺骨と見るところは物質的ですよね。そういうところからも量子力学と相性がいいんでしょうね。もちろん、物質が間違いなのではなく、あらゆる現象は科学的にもスピリチュアル的にも説明できてしまうため、むしろ、宗教と科学が互いに批判し合うこと自体がナンセンスだと思っています。


話を戻しまして、さらにこの地は、もともと光明寺の前の姿である念仏三昧院でした。武者だった熊谷次郎直実が自分の息子と同じ年ごろの平敦盛の首を切り落としたことを悔い改めるために建立されたとしています。

つまり、もともと悔い改めるために建てられた場所だったんですね~。
石灯篭も密教式でしたので、景教の影がちらついています。

石灯籠を移し忘れてしまった🙇‍♀💦


悔い改めには何か見えない力が働いていそうですね😁

ぐるっと一周しますと、出口付近にわずかな紅葉も残っていました。
やっぱり京都の自然は美しいですね〜🍁



さて。

今年の私の悔い改めは、相手の魂胆が見えてしまうと話してる内容が耳に入ってこなくなりがちだったんですが、やっぱり自分の経験が浅いことはいったん聞き入れるべきだなーと痛感した一年でありました。たとえ相手が一回り歳下であろうともです✊来年は、そういう意味で謙虚にならねばですね!

今年ももうすぐ終わります。
あなたは、今年の何を懺悔して来年何を悔い改めますか?

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