時空の果てで、君を待つ
冬の初め、東京の夜空は淡く霞み、ビル群が遠い星々の影のように瞬いていた。慌ただしい通勤路から一本はずれた裏通り、そこに佇む小さな古書店「時の櫂(かい)」は、通り過ぎる人々にはほとんど気づかれない存在だった。扉に取り付けられた真鍮のベルを鳴らし、中へ入ると、甘く古びた紙の匂いと重厚な木製本棚が出迎える。その夜、大学院で物理学を専攻する青年・和也は、ある奇妙な一冊に吸い寄せられた。
表紙には金箔で描かれた精緻な歯車と天球儀。その本は明らかに現代ではない装丁だったが、作者や出版社の記載はなく、ただ中表紙に細い万年筆の筆記体で「A」と記されているだけだった。和也はなぜかその「A」に懐かしさとも呼べない微かな郷愁を感じ、本を買い求めた。
帰宅後、暖房も効かぬ狭いアパートの一室で、本を開くと、不思議なことが起きた。ページをめくるたび、活字が光の粒となって宙を舞い、次第に部屋の中に青白い靄が立ち込める。気づけば和也は、巨大なゼンマイ仕掛けの時計塔がそびえる見知らぬ街に立っていた。大正ロマンを思わせる和洋折衷の通りには、馬車と人力車が行き交い、ガス灯が淡く道を照らしている。まるで時空の狭間に飛び込んだような不可思議な感覚。夢なのか現実なのか判別できぬ中、和也は一人の女性の視線を感じた。
その女性は肩まで届く黒髪をまとめ、小花柄の大正風ドレスに身を包み、ふとした風に薔薇の香を伴わせながらこちらを見つめている。瞳は琥珀色に透きとおり、その中に、なぜか深い懐かしさが宿っていた。彼女は微笑み、淡い声で和也に呼びかける。
「おかえりなさい、和也さん」
初対面のはずなのに、彼女は和也の名を知っていた。不審よりも先に、胸の底からこみ上げる温かな感覚が和也を包む。彼女――亜希子(あきこ)と名乗る女性は、ここは「幾千と幾百の時代が折り重なった交点」だと教えてくれた。どこかの時空で、ふたりは出会い、愛し合い、そして別れたのだという。歴史に刻まれず、記録にも残らぬ恋が、この奇妙な書物の魔力で再び繋がったのだ。
亜希子は和也の手を引き、夜の街を歩く。通りには、紡績工場帰りの婦人や、蓄音機の音に揺れるダンスホール、煤けたレンガ造りの時計店など、別時代が折り重なった光景が広がる。その中でふたりは、過ぎ去った記憶をひとつひとつ拾い上げるように語り合った。和也は現代の研究室で自分が取り組んでいる時間理論について話し、亜希子は自分がいた時代がもし続いていたなら、女性の地位や役割がどう変わっていただろうと微笑んだ。
だが、ふたりには避けられない別れの時が近づいていた。時計塔が深夜を告げると、亜希子の輪郭が淡く揺らぎ始める。「もう時間なのね」と彼女は残念そうに唇を噛む。和也は慌てて彼女を抱きしめた。もう二度と会えないかもしれない。その恐怖が心を蝕む。彼女は微笑み、和也の耳元に囁く。
「愛は時空を越えるわ。またどこかで、あなたを待っている。」
次の瞬間、和也は自室の畳に倒れ込んでいた。本は閉じ、部屋には冷たい風が吹き込むだけ。「夢だったのか?」 そう疑う和也の指先には、小さな紙片が握られていた。そこには彼女の名が、万年筆で繊細な文字として記されている。そして淡い薔薇の香がまだ残っていた。
それから幾年が経ち、和也は時間移動の理論を完成させた。多くの論文を書き、名声を得る中、彼は決して忘れなかった。誰も証明できない「もうひとつの世界」にいた亜希子のことを。ふと研究室の窓辺から空を見上げると、遠い星の瞬きが、あの異国混在の街並みを思い出させる。
いつか再び、時空のどこかで、彼女は微笑んでいるだろう。あの薔薇の香りを纏い、彼を待つために。和也は本を開き、静かに目を閉じた。その先には、必ず再会の瞬間があると信じて――。