大学3年、初夏。うつと診断される。
タイトル通りだ。うつと診断された。そして今日はここに、私がうつと診断されるまでの経緯を、赤裸々に綴ろうと思う。自分でも、まさかうつになるなんて想像だにしていなかったのであるから。鬱を抱え今日も必死に生きる人も、鬱とは無縁の生活を送る人も、なんとなく憂鬱、モヤモヤした日々を送る人も、みんなみんな、いらっしゃい。
小生はこの度、鬱(と発達障害の傾向)を診断された大学3年生だ。
始める前に、これは私個人の回顧録であり単なる独白にすぎず、他の誰一人傷つける意図も、後悔させる意図もないことを先述しておく。
記憶というのは、都合よくどうにだって改竄できるのだ。
文才の微塵も感じさせぬ、ひたすらに疎い文章が続きます。ご注意ください。
申し訳程度に。本文に入る前に、今回はADHDについて少しばかりご説明させていただきたい。私自身も、それと診断されてから詳しく調べるようになった次第でありますゆえ、初見の方もいらっしゃることかと存じ上げる。
目次は以下の通り。
人によっては生々しいと感じ得る描写を含んでおりますゆえ、注意して読み進めてください。
回想 幼少期
思えばこの頃から発達障害特有の言動は現れていた気がする。特殊な家庭環境にあったせいか、周りより少しおませちゃんだった私は、とにかく保育園が苦痛であった。人語を解さぬような幼児が一カ所に集められ、集団で食事、睡眠、外で遊ぶことに適応できなかった。「人見知り」「頑固」「よくわからない」子だったと思われる(アスペルガーによく観られる特性であるらしい)。当時の生活が記された保育手帳を見ても一目瞭然だった。同じクラスの女の子たちが恐ろしかった。凶暴で、まだ幼いくせに一丁前に同姓異性関係なく鋭い嫉妬の目を向け、幼子の無邪気な魂で平気で仲間外れなんかを起こすのだ。友達と呼べる子は一人もいなかった。私は毎朝保育園の門前で登校拒否していたらしい。一人になるのは平気だった。何よりも恐れていたことは、自分という個が、あの空間に入ることで一瞬で同一化という義務に縛られることだ。飲み込まれ、がんじがらめになってしまうような、地獄が見えていた。うまく言語化できぬ年頃であったため、母には「行きたくない」の一点張りで訴えることしかできなかったのだが、振り返ってどうにか言語化しようとすると、まあ、そういうことなのである。今でも保育所をみると目を背けたくなるほど、拭えきれぬ嫌悪感が湧いてくる。
兎角、保育士の先生からしてみればかなり厄介な幼児であったに違いない。
回想 小学校〜高校
これは間違いなく自意識過剰だと批判されるに違いないが、勉強はできる子だった。常に成績は上位にランクインしていて、特に英語や数学などは試験勉強をしなくとも楽に点数を取れた。模試ではランクS〜Aなどが常時であったと記憶している。それが私にとっての当たり前であったし、親や親類に至っても私が所謂「できる子」であることは固定的で今更驚くべきことでもない事であったと思われる。勉強はとにかく好奇心を満たすためのものであって、努力するものや義務であるとは捉えていなかった。
高校2〜3年生の頃、とても博識で、ユーモアのある大好きな社会科教科の先生がいたのだが、この人を「歩く教科書か参考書」だと思って、殆ど毎日、ひたすらに何かしらのテーマについて討論していた。当時先生は、嫌な顔ひとつせず私の話に付き合ってくれていたが、間違いなく先生の残業の原因はこの私である。大変に申し訳なく思う。
個性豊かな素晴らしい友人にも恵まれ、毎日があっという間に過ぎ去っていくほどに、学生生活は充実していた。大学受験も、難なく合格をいただくことができた。短期の留学経験や、ご縁があって出席することになった環境問題に関する国際フォーラムでの実績や、英検準1級等の資格、部活動での大会出場・賞の獲得、生徒会活動云々で総合型選抜によって無難に決めた合格だ。共通テスト組特有の重圧や終わりの見えない学習時間を、幸運にも免れたというわけだ。
順風満帆に思える私の学生生活であるが、この後から自身の特性ゆえの芳しくない特徴によって苦しんでいくことになる。
思うに、順風満帆であったがゆえの「難なくできる子」という呪いが私の中で芽生え、肥えていったのではないだろうか。周りから評価される自分と、自分の中の自分に齟齬が生まれ始めたのはこの頃からだ。
回想 大学1年次
シングル家庭で家は裕福でなかったが、幸運にも給付型奨学金と、大学側からの奨学金とで学費が半額になり、今の大学に通わせてもらっている。
大学という場所はとても面白い。特に私の通う大学は国籍も様々で、性別・門地・宗教・年齢問わず、実に多様な人間がいる。学生のうちに起業し会社を持つものもいれば、とんでもないレベルでお金持ちな友人もいる。同時に私のように裕福でない家の出もいる。実に多様で、この場を小さな地球というべきか、社会の縮図というべきか。実に興味深い場所である。故郷から飛び出し、そんなとんでもない場所に居を移したわけであるが、存外、これまでと違って馴染むことは自然にできた。言うまでもなく、これまでと違いすぎたこと、誰も私の経歴なんぞに興味はないし、目の前にいる奴が面白そうかそうでないかで判断する人間ばかりがそこに居た為であろう。非常に、居心地が良かった。所謂ガリ勉も、陽キャ活動家も、よく分からぬがなんかやべえ奴も、特出すべきものがあればみんなが平等に評価されるのだ。
しかし、天国も理想郷もこの世に存在しないように、大学もまた、無条件に楽しく、自由になれる場所というわけではなかった。多様性と活発性の裏に大きなプレッシャーが潜んでいることを、後に身をもって知ることになる。
回想 大学2年次・留学
大学生活も1年を過ぎれば、興奮の熱りも冷めていく。私の場合は、この大学の本質を見ることになる。多様性と活発な学生が多く存在することをアピールする我が大学に、「なんもしねえ奴は評価に値しない」というようなプレッシャー・風潮が何処となく漂っていることに気づき始めたのである。後輩たちの興味や尊敬の対象は、専らいつも何かしらの活動で表立って輝いている先輩学生や、あたかも挫折を繰り返し、乗り越え、漸く戦に勝って帰ってきたぞと言う風貌の留学から帰国した学生たちだ(私はああ言うのは虚像であり虚栄であると思っている)。多様性と謳う割に、皆一様に見えない波線に沿って泳いでいく様にだいぶがっかりした。そしてまんまとその波に攫われた自分にも心底うんざりした。(私がそれを楽しむ感性が欠如していたことも付け加えておく。所詮ヘッジだ。)
我が大学では、やたらと海外留学や海外でのフィールドワーク、ボランティア云々を勧めたがる節が散見される。交換留学がいい例だ。留学から帰国した先輩方が教壇に立ち「私の留学生活」をテーマに、キラキラした生活、少々の言葉の壁、云々を白人のお綺麗な友人たちと歯茎が見えるほどに笑みを浮かべる写真をつらつらと並べ上げながら声高々にご説明してくれる。そう言うのはこの後就活をするにあたって格好の「ガクチカ」になるからだ。(私はグローバル化や奨学金制度が整いつつある現在、そんなものだけ意気揚々に掲げて就活を成功させるという魂胆が正直いって嫌いである。いかにも凡庸なアイデアになりつつあるからだ。)
加えて我が大学には世界各地に協定校があるために、留学に対する生徒のモチベーションはいうまでもない。夢のような世界である。今思えば一種のビジネスだ。大きな金と、大学の未来が動くビジネスの場である。それが悪だ言っているわけではない。が、私としてはこのシステムに見受けられる諸所の欠陥と言いますか、これはいかがなものかと思う節々が見受けられたのだ。 まあそうやって見事に素晴らしき洗脳をまんまと受けた私は海外に飛び出したわけであるが、結論から言うと、散々だった。
海外に出ることではっきりした大学・ビジネス・人種の「世界」の有り様に良い意味でも悪い意味でも愕然とした。目の当たりにした事実に、思えば渡航後、大学の講義が始まって早々にして私は鬱に近づいていたようにも感じる。 私が心の底から笑える世界はそこには無かった。
留学の詳細を語るとなるとものすごく長くなるので、需要があれば近いうち記事にしたいと思う。かなり過激な本音で綴る予定なので、幸運にも楽しい留学生活を送った方、根性で乗り越え、過去の輝かしい留学記憶を塗り替えたくない方、これから楽しいだけの留学をする予定の方々は閲覧注意とでも言っておこう(あくまで私の所見であることを前提とする)。
回顧 帰国後〜大学3年 前期
本来の留学期間より少々早くに切り上げ帰国した。あの場所にいたって、もうそれ以上でもそれ以下でもない。ただ時間の無駄であると思い、大学側に「私もう日本に帰りますので」とメールし、半ば逃げるように日本に戻ってきた。ちょうど都合よくクリエイティブ系の会社でインターン生として長期で働けることも決まっていたので(かなり用意周到に準備していた)、それを免罪符がわりにし、なんとか理由をつけて戻ってきた。
何もかも、全てに対して、本当に、心の底からうんざりしていた。
日本に帰った私は、やっと地獄から解放されたと思っていた。
しかし実際は、地獄の入り口に立っていただけであった。
予定より早い帰還は、学内の誰からも歓迎されなかった。それもそのはず、奴らは素晴らしき留学ののち帰ってくる帰国生を待ち侘びる理想の崇拝者でしかないからだ。もちろん大多数の話であって、私が心に席を空けている少数の人間たちはそんなつまらぬ奴らではない。心配顔で私を迎え入れてくれた。感謝しかない。
嘘と虚栄に満ちた武勇伝なんぞ、さらさら話してやる気のない放浪者への視線は、到底気持ちの良いものではなかった。かといって、そんなもので人を見る人間にはクソほど興味もないし構ってやらないのが、私と言う人間である。ご苦労様なのである。と、強がらせてくれ…。
帰国後は、ひたすらサークルと、学生団体と、バイトと、課題とインターンの仕事をこなす日々だった。寝る間もないほど忙しかったし、周りの人間たちも段々と「ああ、こいつは『忙しい人間』なんだ」と思うようになったのか、私への当たり方が幾分か柔らかくなっていった。かなしいかな、人一人、擦り切れれば擦り切れるほど、人々は個を「特別視」し「尊重」すべき者として扱い始めるのだ。
どんなに口にされなくても、目は鮮明に語るものだ。私はこの事実に、またしても嫌気がさした。
そしてだんだんと、生活が歪んできた。認知も歪んできた。
クリエイティブ系のスタートアップで働くメリットは、こちらの都合に関係なく仕事が振られまくること。任せてくれること。つまり早いスピードで技術と経験を積むことができることだ。上司や先輩方も仕事に忠実で、彼らから頂いたフィードバック、作品、見聞きする全てが勉強になった。芸術大卒でもない一般大学の学生にすぎぬ自分は、経験も浅い。遅れをとるまい、迷惑をかけるまいと、がむしゃらに喰らいつく日々だった。
遅れをとるなという自負。それとなく遠回しに言われる勤務時間が足りない云々。現状不可能にも近い納期。言葉数少ない職場。それでもやらなければならないプレッシャー。
まだ、有給なのが救いだった。
問題は、こちらの都合を知らぬが故の大学内外の誰それからの、不確かで納得のいかない依頼の数々だった。どんなに忙しくても避けられない勉学の義務。生活費の確保 云々 __塵も積もれば山となる。
前期も半分が過ぎた頃、
私は自室から出られなくなった。
何も手がつかなくなった。
講義に出席しないで、のうのうと生きているだけでも金だけは浪費していく
「生活」というもの、詰まるところ「生命活動」に次第に厭忌の情すら抱き始めた。
ついに、やってはならぬことをやってしまう。
洗面台の棚に手を伸ばす。
自分の首の皮を剃刀で切った。
自傷と強制帰還
人間は、自分で死のうとするには、かなり頑丈にできすぎている。
と言うよりは、恐怖の方が勝ったかもしれない。
強い力で掻き切ることができなかった。
私は結局のところ己の臆病さに生かされたのだ。
ただ痛みと、どうにもならない現実だけが残った。
毎晩風呂場で叫んだ。
身体中をぶつけた。いたるところに。
何日も眠れない日々が続いた。
でもそんな日々も、やがて終わりに近づいていた。
持つべきものは、鬱経験者の友人と、看護師の義姉だ。
昔から道化だけは得意であったが、仮面の下のメンタルブレイクを見破った二人の力によって、私は故郷の心療内科の世話になることになった。
不眠、パニック、鬱状態、意欲低下が指摘された。
そして
所謂「うつ」「パニック障害」そして性質としての発達障害の診断が下された。
診断書と休学
これ以上大学に通うことも、仕事をすることも危険だとみなされ、「休学・休職を強く推奨する」医師の診断書をもらい、そのまま大学に提出した。
思っていたより、大学側の対応は素早く、柔らかかった。
まあ相手は精神疾患者だ。強く出れるはずないか。
その身一つで実家に舞い戻った。
泳いでいないと死んでしまう魚のように、日々何かしらに追われていた毎日を突然に手放すと、私にはもう何も残されていないように思えた。
インターンも、あんなに頑張っていたつもりだったのに、あっさり離職できた。
学生団体も、サークルもだ。
費やしてきた日々を嘲笑うかのように、
「別に、お前一人いなくなっても構わん」とでも言うように、
あっさりと。(私個人の認知の歪みがそう見せているだけなのか?)
そう言うわけで、私は今、何もない日々を過ごしている。
読みたかった本や詩をひたすら読んだり、
将来のための勉強をちょくちょくしたり、
どうしようもない場合にだけ受ける依頼(無給)をこなしながら(あんなにうんざりしていたのに、切るに切れない自分にも嫌気がさす。)、
どうにか静かに過ごしている。
私はこれからどこに向かっていくのだろうか。
正直なところ、将来が心配でならない。
周りのみんなは前に進んでいるように見えるから、余計に自分を情けなく思ってしまうのだ。こんなんで、社会に出られるのか?
日々自問自答し、いじけている。
希望と絶望の比は、日々形勢を変える。
凪いだり、波立ったり、心はほんとうに騒がしい。
そんな毎日だ。
終わりに
ここまで私なりに赤裸々に語ってきたつもりだが、どうだったでしょうか。
かなり赤裸々に綴ったつもりなので、友人知人各所へ。どうか私の正体がわかっても、知らないふりを突き通してほしい。
そして同じく、訳のわからぬ苦しい日々と闘う、同士の皆々様へ。
私たち、ふとした瞬間に呆気なく逝ってしまわぬように
どうか、どうか、今日もご自愛ください。
ふとした瞬間、すごくすごく消えたくなるけれど、
どうかそんな時はYouTubeで「King Gnuの井口奇行集」なるものを見てほしい。
(冗談抜きで私は結構救われた。感性が死にかけでも、笑えるのだ。ありがとう、井口理さん・・・。)
意外にも、踏みとどまった後にちょこっと笑える瞬間があったりして、
今日も私は生きている。おかしいでしょう。
本題に戻る。
綺麗事に聞こえるだろうが、あなたの今日は無意味じゃなかった。面と向かって言いたいが、そうはいかないから、ここで書くにとどめておく。
私たちは過ぎたことを考えては、
見えない先のことを心配しては、
眠れぬ日々が続くけれど。
そんな夜は
そんな夜こそ
一緒に眠れぬ夜を過ごしませんか。
明けゆく空を眺めたら、
また一夜を乗り越えた自分を褒めてください。
空が明るくなるのを見届けたなら、囁きましょう
あなたの朝に昼に夜に
小さな 小さな幸せを願います
ここまでありがとうございました。
また次の記事でお会いできると、いいな。
いつか、本をつくりたい