
気が済む
先日、気が済むということについて、朝から考えていた。
最近、様々な事があって、物事をはっきりさせてカタをつけていく、ということの大事さを感じている。
気がちゃんと済むためにも。
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小学1年生のとき。朝の時間帯。
前の方の席で、何やらみんなが集まって盛り上がっている。
いま流行っているJリーグカードのレアなものを持ってきた子がいるようだ。
その後、朝会でもあったのだろうか。
皆が教室からいなくなる。
その子がいた席に近づく。
誰もいない教室で、引き出しを開ける。
カードを数枚盗る。
羨ましくなり、自分も「いいもの」が抑えようなく欲しくなってしまったのだと思う。
その後、教室に戻ってきたその子がカードが無くなっているのに気付き、騒ぎ始める。
周りも巻き込んで大事な雰囲気になっていく。
とんでもないことをしてしまったと、自分の中で衝撃が沸き起こる。
元に戻したい。でももう無理だ…。
絶望感や気持ちの悪さ、後悔、焦り、バレたときの恐怖等、自分の中で一気に渦巻き始める。
その中の一枚が三浦知良のものだったのを覚えている。あんなに格好良くて欲しかったカードが、
それを見ると嫌な気持ちも湧き起こる複雑なものに変わってしまった。
不幸なことに、結局このことは誰にもバレる事がなく、一人で抱え込むことになってしまった。
これが、恐怖や罪悪感を身体に刻んで残してしまう体験となった。
当たり前のことだが、事態が露呈して、きちんと叱られ、相手に謝れた方がお互いにとって良かったと思う。その時は辛かったとしても。
大人になってから様々な勉強をし、この事を思い出して考えると、
この出来事単体で考えられるものではなく、他の事情等と結びついて起こったことだという理解もできることがわかってくる。
それでも、これを書いている今も嫌な気持ちが湧き起こっている。
(同時に、これを書きながら、以前よりもその体験に身を置きつつ、落ち着いて見られるようになってきているとも思う。)
あのときカードを奪ってしまった子には、とても申し訳ない気持ちがあります。
本当にごめんなさい。
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気とはエネルギーだ。
表面上はうまくやり過ごせたとしても、衝撃を受けたり、著しく滞ってしまったエネルギーは身体に記憶されている。
過去の出来事でも、現在の身体に残っている。
そのエネルギーが、強すぎて自分では取り扱えないと認識し、放置していると、
過去の体験の再現が起きないように、過剰に何かを避けたり誤魔化したりするようになるのだろう。無感覚になったり、思考が停止することもあるだろう。
或いは、同じことを繰り返してばかりで、そこから出られない・前に進めないという感覚が強くなってくる。
それを終わらせるためには、
過去の出来事、或いは現在の課題を通して自分と向き合わなければならないのだろう。
吐きそうになってくるが…。
形をつけながら少しずつ向き合っていく。
そんな中で気を済ませられる(放出したり、秩序のなかで落ち着きをみせてくる)ようになってくると、
少しずつ新しい景色が見えてくるはずだ。