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意味のある中学受験にするための親子の条件

受験、特に中学校受験は、結果が読みにくい。合格圏にいて大丈夫だろうと思われていた子が不合格であることも、あるいはその逆も、ざらにある。不安や緊張の中、実力を発揮することは、大人でも難しい。何年も頑張り続けてきた努力が、数時間のテストで判断されてしまう「受験」という制度自体、まだ精神的に発達途上の子どもたち、特に小学生にはなじまないのではないかと思うが、さりとて他に方法もなく、今年も受験シーズンがやってくる。

心身の変化と中学受験

小学6年生というのは、心身の変化が著しい時期だ。思春期に差しかかり、これまで当たり前だと思っていたことが揺らぎだす。その中には当然ながら学校や親といったものも含まれており、学校という環境や親の言うことを、これまでのように素直に受け入れられなくなる。また、思考の形が変化していくことも大きい。国の名前や恐竜の名前など、意識しなくても丸暗記できたはずなのに、それができなくなる。物事を意味で捉えるよう、認識のしかたが変化していくのだ。加えて、親子関係よりも友達関係に軸足が移っていくため、友達との関係でエネルギーを奪われたり、「受験に落ちたら、周りの友達にどう思われるだろう」というプレッシャーを感じだしたりする。

これらは正常な成長の過程であり、本来はとても喜ばしいことなのだけれど、受験期と重なると、その結果に多かれ少なかれ影響を及ぼす。「受験をする自分」にまだ疑いを持たない状態か、すでに疑問を抱いた上で受け入れている状態かであればいいのかもしれないが、程度の差はあれ、揺らぎのない子はいない。こうした状態で、周囲の大人たちの期待を背負って、子どもたちは受験に臨むことになる。

受験のリスク

リスクのない決断はない。受験にも、当然ながらリスクがある。もっとも大きいリスクは、不合格だったときの「傷つき」だろう。小学生時代に、「自己効力感」=何であれ自分はやればできるのだ、という感覚を育んでおくことは、非常に重要である。自己効力感があると、中学校の学習や課外活動に積極的に関わることができるのだけれど、受験の失敗でその感覚を削がれてしまうと、新たな環境への意欲をなくしてしまうことがある。高校・大学と、まだまだチャンスはあるのに、新たなチャレンジに向かっていくエネルギーを失ってしまうことは、極力避けたい。

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それでは、受験などしなければいいのかというと、一概にそうとも言えない。リスクのない受験はないけれど、しっかりと向き合うことができれば、それは成長の大きなチャンスとなる。無事に山を登りきれるかは、天候や体調によって不確かだけれど、そこに向かう一歩一歩は、その子の心に確かに刻まれる。それが、充実した一歩になるか、つらくしんどい一歩になるかは、その子の準備状態と、周囲の接し方に大きく左右される。雨具の用意もなく訳も分からず腕を引っ張られるのか、厳しい状況に立ち向かう充足感を得ることができるのか。同じ日、同じ山に登ったのだとしても、まったく違う体験となる。

受験に立ち向かうとき、それを「意味のある受験」にするために、子どもと親と、双方に必要な準備について考えていきたい。

受験への準備

子どもの準備「自らの意志」

子どもの準備としては、少なくとも自らの意志で受験に向かっていることが必要となる。「友達が受けるから」「親に言われたから」といった、外に動機がある場合は、もし失敗したら友達や親からどう思われるかというストレスが常につきまとうことになる。こうした「マイナス」を埋めようとする努力で何とかなるほど、受験というのは甘くないし、うまく行かなかった場合、自己評価が下がるばかりか、そうさせた他者を拒絶することにもなりかねない。また、うまくいったとしても、これまでの「やらされてる感」への反動から、中学では何もしなくなってしまうこともある。

一方、言葉にできなくても、新しい環境への憧れや向上心など、内に動機があると、タフに闘える。自分で決めたことは、その結果も受け入れやすい。こうした「プラス」を求める努力は、結果はどうあれ、その後のチャレンジの第一歩となる。

もちろん、これは程度の問題で、動機が完全に外にある子も、内にある子もいない。ただ、できるだけ主体的に受験に関われるよう、学校見学など、意志決定のプロセスに参加してもらい、最終的な決断を任せることが必要となる。どのような中学校があるのか、家族はどう考えているのか、受験することになったら何ができなくなり、何をしなくてはいけないのか。さまざまな情報を共有し、一緒に考えることが、外してはならない受験の第一歩だと言える。

親の準備「子どもを個人として認める」

親(あるいは私たち指導者)に必要な条件は、「子どもを個人として認める」視点が持てるかどうかだろう。先に書いたように、受験期の子どもたちは自我の確立への過渡期にいる。この時期の接し方はなかなか難しいのだけれど、学習に関わる場面では、対等な「同盟関係」を結べるかどうかが鍵になる。少なくとも、最終的な局面で、同じ目標を掲げ、パートナーとして歩んでくれているという感覚は、子どもたちの大きな力となる。

受験のシーンでは、「親が子どものやる気を追い越してはいけない」とよく言われる。受験をするのはあくまで子どもであり、私たち大人ではない。周囲のやる気が本人を追い越してしまうと、子どもたちはそれに追いつこうとして疲弊する。そして通常、大人たちの期待は止まらず、子どもの頑張りを受けてもっと上へ上へと望むことになるのだが、そうした状況で子どもが感じるのは、理不尽さである。子どもたちにとってもっとも安心できる場所であるはずの(安心できる場所でなければならない)家庭が、油断のできない場所になってしまうと、ストレスに対する抵抗力がガクンと落ちる。元気がなくなる・体調を崩しがちになる・すぐに眠くなる・会話がなくなるなどのサインがあったら、私たちは、周囲の大人たちのやる気が本人を追い越し、追いつめていないかを考えたほうがよいかもしれない。

受験における表舞台と裏舞台

そうは言っても、「どうかよい結果を」という家族や指導者の願いは、本人を上回ることが多い。自分が受験することができないぶん、そのもどかしさはより痛切なものとなる。そもそも中学受験というものは、よりよい人生を歩んでほしいという保護者の願いがベースにあり、そのために、時に自らの人生を後まわしにして、多くのお金・時間・労力が支払われている。にもかかわらず、子どもたちの成長の過程は複雑で、思い通りにはいかない。

受験に際し、私たちは「表舞台」と「裏舞台」という表現をよくする(正しくは「舞台裏」なのだけれど、もう一つの舞台ということで、ここではあえて「裏舞台」と呼ぶ)。

「表舞台」では、その子が悔いなく、すがすがしく、まっすぐに歩めるよう、結果は気にせずできることを精一杯やるよう励ます。一つひとつの努力を認め、誉め、信頼できる大人として余裕のある振る舞いをする。一方、「裏舞台」では、うまく行かなかった時のための第二希望・第三希望の選定や、学費の心配、さまざまな情報の取捨選択など、右に左に忙しく立ち回りながら、期待通りに伸びてくれない点数や本人の態度に一喜一憂することになる。

どちらの舞台も大切なのだけれど、特に中学受験に関しては、子どもたちが知るのは「表舞台」だけでよいのではないかと思うし、「裏舞台」をあくまで「裏」に留めておく度量が大人たちに求められるのではないかと感じる。ただ、「裏舞台」をひとりで抱えるのはかなりしんどいはずのなので、できるだけ、ご家族や関係者全員で、そのもどかしさを分かち合うことも大切になる。

受験をする意味

長寿化が進み、経済の構造も変わっている今、同じ会社に終生勤め上げるという人は稀になり、何度か転職を繰り返したり、自ら会社を立ち上げたりといったことが当たり前になりつつある。自らが歩むキャリアの拠りどころになるものは、「自分は何がしたいのか」という、行く先を示すコンパスである。コンパスがない子は、選択の基準がないため、進学や就職・転職など、さまざまな場面で途方に暮れることになる。あなたが面接官なら、何らかのビジョンを持っている人と、何となく流されてきた人、どちらを受け入れたいだろうか。キャリアが多様化しているからこそ、自分が行きたい場がないというのは、それだけでリスクとなる。

もちろん、中学受験のタイミングでそんな見通しを持っている子は稀だし、今後の長い道のりでどんどん変わっていく。けれど、それでも、自分の向かう先は自分で決めるものだということは、どうしても学んでほしい。もし、自らの決断の第一歩として、受験という選択ができたとき、それはその子にとって大きな意味のある受験となる。

受験をするかしないか、決めるのは子ども自身である。ただ、何もしたくないからと受験を避けるのは、それはそれで学びの機会を逸することになる。もし「受験をしない」という子がいたら、こう聞いてみてほしい。
「じゃあ、他に何かチャレンジしたいことはある?」
漢字検定や数学検定などの検定でもよいし、小学生でも受けられる資格試験でもいい。あるいは旅や登山などの体験かもしれないし、親の手伝いや創作でもいい。それはすぐに出てこないかもしれないし、もしかすると受験よりも過酷なチャレンジになるかもしれない。失敗をするかもしれない。それでも、この時期、何かにチャレンジしたという経験は、これからの旅路において、かけがえのない宝物になるはずだ。

この記事を書いた人

【プロフィール】
2012年より、北千住で、幼稚園生から社会人までを対象とした文章技術や国語・作文の教室を運営。
心理学・教育学の知見をベースに、「読む・書く・考える・対話する」という言葉の領域にアプローチする教育メソッドを日々模索・実践している。
幼少期より読むことや書くことが好きで、日本大学芸術学部在学中に第1回江古田文学賞を受賞。
卒業後、都内の有名作文教室に入社し、運営に携わるも、「〇〇式」といった狭いノウハウに押し込める教育に疑問を持ち、独立。
言葉が、世界の捉え方や考え方、人生の物語を形づくるという視点から、既存の教育メソッドを越えた、より普遍的な教育モデルの構築を目指すと同時に、一人ひとりの個性や価値観を育む、対話による指導を行っている。
生徒それぞれが、それぞれの人生の物語を歩める人になってほしいと願っている。


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