鼉龍文盾形銅鏡と物部氏の系譜
山の辺の道を崇神稜から景行稜へ向かって歩いている途中,「ひもろぎ遺跡」の看板がありました。その案内板を見ると驚くべき説明がありました。「日本書紀」によると,崇神天皇のころ人民の半数が死亡するほどの疫病,災害が続いたため,「神武以来皇居内で祀られていた天照大御神を,皇居外の最良の場所で奉斎すべし」との御託宣に基づき,天照大御神を皇女の豊鍬入姫に託すこととし,堅固な石の神籬(ひもろぎ,神の降臨する場所)を造立しました。その神籬があった場所を示す碑が,うらぶれたこの果樹園の中,ほとんどビニールハウスに隠れるように立っていたのです。このときの近畿一円の旅程で最大の衝撃でした。
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崇神天皇は同時に,淳名城入姫に倭大国魂神を祀らせたものの,姫は衰弱して祈ることができなくなりました。その後,倭迹迹日百襲姫命(孝霊天皇の皇女,墓は箸墓古墳に比定)と,大水口宿禰の夢に共通するお告げが現れ,大田田根子と市磯長尾市にそれぞれ大物主神と倭大国魂を祀らせれば泰平となるとされました。この大水口宿禰は祭祀を司る神官であり,崇神天皇のいとこであったとも考えられます。その出身は奈良県北部,饒速日命から数えて4代ないし5代あとの子孫でした。
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ここで一つ前提として,「日本書紀」「古事記」に記されている神々と神武天皇,ならびに欠史8代の天皇は実在した人物ととらえます。岩戸隠れ,国譲り,東征といった神話的なエピソードの多くも史実を反映したものと考えますが,100歳以上生きたという誇張は取り除き,古代の君主の平均在位年数をもとに割り当てて神武は3世紀末~4世紀初めの人物,神武の東征と長髄彦との戦いも史実であると考えます。このあたりを前提とする理由については後日改めて記したいと思います。富雄丸山古墳の出土品は4世紀後半のものと推定されますが,この時期は崇神・垂仁・景行天皇の時代に当たります。神武の東征に先立つ3世紀後半,近畿征服へ向かった饒速日命は地元豪族の長髄彦の妹・御炊屋姫を妃として抵抗勢力を骨抜きにしました。征服軍は数のうえでは少数だったため,融和策として縁組みを図ったと考えられます。その後,神武が遅れて河内から攻め込むと長髄彦は激しく抵抗し,神武はいったん熊野へ回って再度大和北部へ侵攻を試みました。このとき饒速日命の正妻の子・高倉下(天香山命)の助けを得て,神武は饒速日命が征服した領地を奪いました(国ゆずり)。御炊屋姫の子で後継者の宇摩志麻遅命は進んで神武に従い,以後神武の意向のもと高倉下や宇摩志麻遅命が大和一円を平定しました。この宇摩志麻遅命は物部氏の祖となり,物部氏は代々軍事を司る伴造として朝廷に仕えました。長髄彦は「長い脛」の名のとおり巨躯の持ち主で,物部氏が武人として権勢を誇ったのも他を圧倒する体格ゆえだったのではないでしょうか。
ここで銅鏡へと話を移します。古代において鏡は太陽光を反射させありのままの姿を写す,不思議な霊力を宿す祭器として用いられました。下記はかつて高岡短期大学で行われた巨大青銅鏡を作製するレポートですが,とてもひたむきな研究で好感が持てます。この内容についても後日追って記したいと思います。
https://core.ac.uk/download/pdf/70325341.pdf
要点としては,当時原料としての銅や錫,鉄はたいへん貴重なものであった,埋葬したもの以外の製品は溶かして再利用された,割れないよう鋳造するには銅と錫の含有量の調整,鋳型・温度の工夫など高い技術が必要とされた,等々です。
鏡を副葬した目的が邪悪なものを寄せつけないためであることをふまえ,なぜ縦に長い巨大な鏡をつくる気になったのか,それは大柄な被葬者を守るためであると考えます。貴重品である青銅や鉄を,後生に一族が万一必要とする際には溶かして再利用できるよう,巨大に製作した金属器を隠し財産として,墳丘ではなく盗掘されにくい造出し部分に埋めました。のち物部氏の滅亡とともに墓の多くは暴かれ,金属器は溶かして蘇我氏の財産とされたが富雄丸山の財宝の秘匿は成功,物部氏の系譜に由来する特殊な盾形銅鏡は2023年になって奇跡的に日の目を見ました。そして古墳の年代と天皇の在位年代をつき合わせた結果として~今回は駆け足となりましたが〜ひとまず鼉龍文盾形銅鏡と蛇行剣の下に眠る人物は大水口宿禰であるという仮説を立てます。