豊臣秀吉と応其

 唐から帰国後,修禅の地を探していた空海は,大和国宇智郡より紀ノ川を渡り,猟師の連れていた二匹の犬に導かれて高野山中の盆地を見つけ,ここを真言宗の本拠とすることを決意したとされます。宇智郡は現在の五條市北部に当たり,大阪からのルートで金剛峯寺をめざした途中,桛田荘らしき中州の地形を見かけた橋からやや上流に位置する地域です。このときの旅で金剛峯寺についていろいろ調べてみた中で一番印象に残った話が,安土桃山時代の仏教弾圧です。

9世紀末建立の西塔(現存する塔は19世紀に再建されたもの)

 織田信長が延暦寺を焼き討ちにしたことは有名ですが,金剛峯寺はなぜ難を逃れたのかと不思議に思っていました。実際には延暦寺同様,多くの僧兵を抱える金剛峯寺も例外ではありませんでした。信長は敵兵が逃げ込んだ延暦寺を焼き討ちにしましたが,まさにこれと同じ経緯をたどって金剛峯寺も攻撃対象とされ,約1400人の僧が殺害されました。まもなく本能寺の変で織田信長が倒れたため,それ以上の被害は及びませんでしたが,跡を継いだ豊臣秀吉が1585年,金剛峯寺に対して武装解除と降伏を求めてきました。
 高野山内で協議の結果,秀吉への降伏が決定され,客僧であった応其が,同じ近江国出身でつながりのある石田三成を介して秀吉との面会にこぎつけました。まず降伏を申し入れた応其に対し,秀吉は条件として僧は武器を放棄すること,謀反人をかくまわないこと,もっぱら学問・修行に励むことを求めたうえで,拡大した高野山の所領を手放すよう命令しました。応其はすんなりとこれを受諾し,「本来僧は徒手空拳であり,所領など不要である。しかしすべてを差し出すわけにはいかない。これは弘法大師の御供奉を考えてのことである。高野山開山に関する最古の記録に見える所領のみ保証していただければ,それで十分である」と,和議の条件を示しました。応其には,秀吉という外敵をむしろ利用して,堕落していた僧たちに大なたを振るおうという思惑がありました。
 応其の交渉術に感心した秀吉は逆に,天下統一を成し遂げるための心得をたずねました。応其はこれに答えて,「天下人とはこの世から戦いを取り除く者のことである。武器をもつと人は欲にかられて他人を襲い,襲われた者は身を守るために武器を手にする。その結果として戦乱の世が長く続いてきた。天下人は人々から武器を取り上げる必要がある」と説きました。応其はこれを普遍的な平和論として述べたのかもしれませんが,統一事業が佳境に入っていた秀吉にとって,この言葉を大名どうしの軍縮論と解釈すべくもなく,のちに武士以外の身分,寺社・百姓から武器を奪う刀狩令を発布することとなりました。
 交渉の結果,高野山は焼き討ちを免れ,応其は秀吉から1千石の知行をあたえられます。高野山の再興をまかされた応其は,客僧の宿泊所や学問所として興山寺をおこしました。その後,豊臣秀吉がその隣りに母の菩提を弔う剃髪寺(清巌寺)を建て,これら2つの寺院が明治時代になって合併して現在の金剛峯寺となったということです。

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