謎を深める朱塗り石棺

 吉野ヶ里遺跡の日吉神社跡で発見された石棺の土を掘り下げた底は,石でなく地面でした。板石を長方形に組み立てて粘土で目張りをし,上に石蓋をかぶせた箱式石棺墓とよばれる構造で,吉野ヶ里遺跡でもこれまで同様の墓は発見されています。底石がないため,地面の酸性が強いとそれだけで有機物は分解してしまいます。ぐるりと囲むように100人の殉葬者が埋まっていたとしても跡形もないでしょう。この内壁一面に朱が塗られ高貴な身分をうかがわせる一方で,何も副葬されていないという違和感を解消すべく,いくつかの仮説を立ててみました。
a 遺体は埋葬されていたが,副葬品は入れなかった:神託を発する卑弥呼は閉鎖された空間に坐す「不可視の存在」だったことから,副葬品を添える通常の埋葬とは異なる特別な形態の埋葬が行われ,かつてない大量の線刻の方に大きな意味がある。線刻を大量に彫るのなら副葬品は不要(両立しない),といった呪術的な思想が背景にあるのでは。→卑弥呼は「倭王」であり,弥生時代最大規模の装飾・副葬品を伴う棺に納められてしかるべき,という従来の見方を超えた価値観。石棺が卑弥呼の墓である可能性は残るが,線刻が解読されない限り立証は難しい。
b 盗掘を避けるためのダミーの墓で,人体も埋葬されていなかった:当時は狭い範囲内で多くの小国が争う社会で,特に卑弥呼が死去したあとは,戦乱へ逆戻りする情勢となり,他国に女王の墓を荒らされることを恐れた。→卑弥呼の墓は他所にある可能性が残る。ただし境内は本当に狭いエリアなので,すぐそばの4割エリアに本物の墓があってはダミーとしての役割は心許ない。
c 陪冢である:これは女性の従者または親族の簡素な墓であり,もっと規模の大きな君主の墓がそばにある。→4割エリアの発掘に期待。
 自らの墓には装飾・副葬品を納めさせず,盗掘による被害を免れるためダミーの墓を多数つくるという手法は,まさに邪馬台国が朝貢した魏に前例があり(初代皇帝曹操),不自然な話ではありません。
 公園の30m以上の高所(凡例赤=前回地図参照)には可能性は残っていないのかと案内図を見てみると,丘の北側の30m超の地域には甕棺墓列が,丘の東側の30m超の地域には北墳丘墓と甕棺墓列が存在し,神社の周辺地域は調査し尽くされていたようです。謎のエリアの呼び名どおりやはりこの発掘がラストチャンス。残りのエリアで何も出なければ邪馬台国論争はまた振り出し,不毛ながらロマンに満ちたトピックに逆戻りという風潮になりかねません。しかし線刻の発見は大きな前進なので,100歩進んだ期待が50歩まで下がったような印象です。

吉野ヶ里と周辺の環濠集落の分布(地理院地図より作成)

 吉野ヶ里周辺一帯のくにを構成する集落(赤枠)は,ほとんどが山裾に貼り付くように分布していました。南方を流れるのは筑後川で,広大な低地(凡例青)は現在九州最大の穀倉地帯となっています。なぜこんな山裾に,と思ったら,弥生時代には海面が上昇,吉野ヶ里の目前にまで海もしくは湿地が迫っていたという説がありました。神武天皇の大阪湾侵入と同じ背景です。7万戸と伝えられる邪馬台国の巨大な人口,米の生産量の面からも考えても広大な平地が広がる内陸の朝倉などが,邪馬台国の候補地として推される説もうなずけます。
 吉野ヶ里の周辺でもいくつかの環濠集落と首長の墳墓が発見されており,これら集落が連合した政府が置かれた都が吉野ヶ里であると考えられます。吉野ヶ里の環濠集落にはくにの支配層である大人が,周辺集落には庶民である下戸が住んでいました。王は有力な集落の中から選ばれて吉野ヶ里に居を構え,役割を終えると出身集落に葬られたという考え方もあり,この場合吉野ヶ里以外の環濠集落にも卑弥呼の墓が存在する可能性が残ります。
 日吉神社跡の石棺は周囲と隔絶された立地と単独での埋葬から,これまで知られていなかった2世紀後半~3世紀中ごろの有力者の墓という点は確定,そして幅の狭さから見て女性であることも確実,となればこの人物が中国の歴史書に記された誰に該当するのかは限られてきます。今後の土壌分析と4割エリアの発掘を待つしかありませんが,土壌分析では何々っぽい有機物としかわからないでしょう。ダミーだったとしたら残り4割エリアや他の集落に銅鏡や金印を副葬した墳墓が存在する可能性,卑弥呼が葬られていたのだとしたらまさに線刻にずばりその事績が記されているのだという可能性が考えられます。いずれにしても前述したように,邪馬台国の所在地を考古学的に確定するには,こうした出土品から可能性を当たっていくしかありません。
 さて,副葬品が出なかったことで一躍今回の発掘の主題に復帰した線刻ですが,県から図面が公表され,予想を超える豊かなデザインに驚嘆しました。古代の歴史を掘り下げる最強の手がかりとなる分解しない金属や石への刻印,それが今回まとまった形で大量にみつかったわけで,やはり鼉龍文盾形銅鏡レベルと評価されてしかるべき大きな発見であることを再認識するとともに,改めて副葬品なしという点とのアンバランスに謎が深まりました。こうした図柄は初見の印象がとても大事で,自分の手でトレースしながらとてもエキサイトしました。興味深い特徴が数多く見つかったので次回述べたいと思います。


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