大人になると「遊ぶ」ことが難しくなる理由
昔、ゲーセンで過ごす時間がとても楽しかった。
友人たちと一緒に、ただゲームに没頭し、時間を忘れて遊ぶ空間は、純粋で無邪気な楽しみそのものだった。
あの頃は、誰もが好きなことに夢中になり、競争や外的なプレッシャーに悩むことはなかった。皆が同じ目的で集まり、ただ楽しむために過ごしていた。
それが、子供時代の特権であり、ゲーセンという空間の魅力だった。
しかし、大人になるにつれて、同じように純粋に遊ぶことが難しくなってきた。それは、仕事、家庭、異性との関係など、あらゆる場面で競争が生じるからだ。
例えば仕事と収入という点でいえば。ハーバード大学の労働経済学者クローディア・ゴールディンの調査によれば、労働時間が昇進に大きな影響を与えることが明らかになっている。
つまり、好きでない仕事であっても、収入を増やすためには昇進が必要であり、結果的に時間の多くを仕事に捧げることが求められる。これは、多くの人にとって避けられない現実であり、その中で自分の趣味や自由な時間を犠牲にせざるを得ない状況が生まれている。
また家族という側面でいえば、私の友人の中にも、家族のために休日を使い、自分の趣味を諦めている人が少なくない。
現代においては家族の幸福にもお金と時間が必要となる。
彼らは、家族の幸福のために生きることを幸福と感じているかもしれないが、その一方で、自分自身の楽しみや興味を犠牲にしていることも事実だ。
異性との関係においても、現代社会は競争が強調される。
収入や容姿、さらにはコミュニケーション能力が重要な要素となり、それらを高めることが異性との関係を築くために不可欠とされている。
もちろん、これらの要素を磨くことを楽しんで行う人もいるが、興味がないにもかかわらず、やむをえず仕方なく取り組む人も多い。
収入を増やし、外見を整え、コミュニケーションを鍛えることが嫌いではないなら良いが、そうでない場合、異性を獲得するという目的のためにそれらに時間を費やすことは、大きなストレスや不満を生む可能性がある。
結局、現代社会では好き嫌いに関わらず、競争に巻き込まれることは避けられない。
さらに、大人になってからの集まりにおいても、子供の頃のように単純に楽しむことができなくなることが多い。
子供時代の集まりでは、皆が同じ目的で集まり、ただ一緒に楽しむことが中心だった。しかし、大人の集まりでは、時に「場を仕切りたがる人」や「自分の知識や優位性をアピールする人」が現れることがある。
そうした人々は、他者を支配しようとしたり、自分の優位性を示すことで、無意識のうちに競争意識を持ち込んでいるのだろう。
これが、純粋に楽しむ空間を壊し、誰もがリラックスして参加できる状況を作りにくくしている。
このような行動は、おそらく競争社会にさらされ続けた結果としての「生存スキル」の一種かもしれない。
現代社会では、仕事でも家庭でも、異性関係でも、何かしらの競争が常に存在し、その中で自分を守り、優位に立とうとする行動が求められる。
しかし、そうした行動が、集まりの中で純粋に楽しむことを妨げる要因になっているのではないかと感じる。
誰もが「自分の立場」を意識しすぎてしまい、自然体でいられなくなる。
結果として、遊びや楽しみの場でさえも、無意識のうちに競争に巻き込まれ、かつてのように心から楽しむことが難しくなると思う。
幸いなことに、私は今のところ、こうした圧力をそれほど強く感じてはいない。
しかし、周囲の人々を見ていると、彼らが競争や社会的なプレッシャーの中で望まない生き方をしているのではないかと思うことがある。
なんというか、仕事での成功や家族の期待、異性との関係においても、常に「自分を高めること」が求められているようにみえる。
これは一見、成長を促すように見えるかもしれないが、その裏には、無理に競争に巻き込まれ、楽しむ時間や自分の時間を犠牲にしている現実があるのではなかろうか。
子供時代のように、ただ純粋に楽しむ時間を持つことは、大人になるにつれて難しくなっていく。
競争や圧力が生活のあらゆる側面に影響を及ぼし、自分の興味や楽しみを追求することが難しくなるのだと思う。
私は、仕事や家庭、社会の期待に縛られることなく、自由に自分の時間を楽しむことができる瞬間を大切にしたい。
大人だからこそ、意識してそうした「遊びの時間」を持つことが、真の幸福に繋がるのではないだろうか。