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ほんとの意味で「心が喜ぶこと」は目に見えない
去年の私は毎日、自分を喜ばせてあげることが波動を上げることに繋がるというスピ思考を信じて、年度の途中病みながらも、美味しいスイーツをよく食べたり、行きたい所へ行ったりした一年だった‥
確かに、その瞬間は「おいしくって幸せ!」とか思ったけど、わたしの心の根っこの部分では「美味しいから幸せ」とは感じていなかった。
ただ「幸せ気分を味わうごっこ」をしていただけだった、と今は思う。
「いつもいい気分でいれば、人生は良い方向へ変わる」というエイブラハムの教えを必死に守ろうと努力した分だけ、心は空っぽになっていった。
そもそも「いい気分」になるには、その理由がいる。理由もないのに、ただ心地よいことをやっているだけでOKなんて、おかし過ぎやしないかと、今ごろ気づく。
なので私に、エイブラハムの教えは合っていなかった。
私は、
何かに感動して涙が出る瞬間とか、
なかなか分かり合えなかった母に、自分から心を開いて素直になったら、実は心の深い所で繋がっていたのを感じた瞬間とか、
私が悲しくて泣いているとき、飼っているチワワがただ心配そうな目で見つめてそばにいてくれて、無償の愛を送ってくれたときとか、
公園の花が、色取り取りに咲き誇って輝いているのを見たときとかに、
幸せを感じる。
わたしが感じる「いい気分」のときは、ただ「愛」を感じるときだったと気づく。
「愛」は、目には見えない。見えないから、自分の外側の物質世界にばかり意識を向けすぎていると、完全に見失って不安になる。
わたしは「愛」が見えなくていつも不安だった。この漠然とした不安がわたしをスピに導いた。
でも本来「愛」は、与えるものだから、わたしが人、動物、自然に対して、心から無償の愛を与えることができたときに、もっと心が喜ぶのだろう。
「与えること」は、
実はわたしがすごく苦手なこと‥
素直に「愛」を差し出すことがとても恥ずかしいのだ‥
自分が苦手なことに取り組むことが「今世の使命」だということを、西洋占星術を学んで理解している。
私の使命は、目に見えない「愛」を、私なりの形でまわりの人に与えて行くこと。
それが、本当の意味で「わたしの心が喜ぶこと」
こうしてただ楽しいからという理由でブログを書いたり、他にも心を成長させることをして、
「愛を与える」素晴らしさを知りたい。
そしていつか、素直に「愛」を与えられる自分になりたい。