絶望も希望も、夢も現実も
このnote内で、これまでずっと心の中で応援してきた闘病中の方がお亡くなりになったと知り、久しぶりに子供のように泣いた。
でも今頃はきっと天国で、noteで知り合った方々を優しく見守って下さっていると思うから、私も彼女の記事から溢れていた儚げで繊細な優しさや、今をただ懸命に幸せに生きていこうとする芯のある強さに敬意を表し、彼女に恥じないように私の命の時計の一秒一秒を、残された者として全うしなければと決意する。
思い起こせば
「私の大好きな故郷の海のような記事
優しい波の音がいつまでも聞こえてきそうです。」
というコメントをいただいたとき、心が通じ会えた喜びで感謝の気持ちが沸いたのがきっかけで、それから彼女の記事をいつも拝見するようになった。
けれどいつもただ拝見するだけで、コメントをしたくても結局出来ずじまいに終わってしまった。
ただそれは今思えば、考え過ぎてしまっていただけのように思う。
「こんな風に書いたら闘病中、重荷にならないだろうか‥」
「私は当事者ではないから、実際に彼女の痛みを体験していないからこんなコメントしか書けないのではないか‥」
などと考え過ぎてしまい、コメントを書いては消しを繰り返していた。
でも世の中には、私みたいに「自分がどう思われるか」にフォーカスを当ててしまうことなく、ただ応援したい気持ちを、心のままに素直に表現されている方々が沢山いらっしゃって、彼女のもとにひっきりなしに届く思いやりに溢れた応援メッセージを拝読するたびにほっと安心するという、情けない私だった‥
そして最近、久しぶりのお友達から一通のラインが届いた。
近況報告と、「この年になってもまだ、何をしたらいいのかが分からないの」という内容だった。
その時私は、天国に旅立たれた彼女を想った
彼女は病床の中社会貢献活動をされていた。
その活動が、彼女の生きる原動力になっているのを拝見しながらずっと続いていくことを祈っていた。
「誰かが笑顔になってくれたら」
「誰かが元気になってくれたら」
という思いをみんなが持てば、世界は平和になる
でもみんな、「自分らしさ」という実体のないものにこだわり、虚構の海に飛び込み彷徨う
だから、私は思い切って
「何をしたらいいのか分からないという人は、
自分のためにしたいことはなくて
他者貢献のために何かをしたい魂なのかもね
私はそう感じる」
と伝えたら、彼女は、
「そうかもね、なんだか勇気が沸いてきた!
いっちょやったるでー」
と明るく返してくれた。
友達は、何をしたらいいのかが分からないと言いながらも、動物愛護団体を支援したり、私への感謝の気持ちと言って、点描で曼荼羅を描いてプレゼントしてくれたり、息子さんのアトリエ開設のためなどにと、忙しく動き回っていた。
よくスピリチュアルでは
「自分軸で生きよう」と言うけれど、私にはこれがいまいちよく理解できずにいた‥
自分軸になろうとすると、私の場合、人間関係が苦しくなってしまう
そして、ついついいつも相手のことを先に考えてしまう
私も何がしたいかよく分からない
ただ、周りの人を笑顔にしたい
だから、自分軸と、他人軸、私には両方必要なのかな‥
もしも
自分の本質を深く知り、相手の本質も深く知ることができたなら
相手と違いがあることは当たり前であると納得がいき、
相手を「自分とは違う人間」と認めることで、争う気も起こらなくなり、嫌な人もいなくなる。
そんな、各々の個性の違いを認め合って上手く共存して生きていけたらという思いから、2年半前から西洋占星術を学んでいた。
私は最初の頃は
自分の実家の家族との関係性を、まず改善するために学んでいた
けれど
私たちの人生には
いつでも、どこにでも
点と点を繋ぎ合わせて 線にしていく
「神様の計らい」が転がっている
私はある日ふと、NPOをやっている方と知り合いになり、
なぜかその方に、西洋占星術を学んでいることを話した。
「母と子のホロスコープからお互いの生まれ持った本質、才能を知って、互いの違いを尊重し認め合い、調和して生きていくための親子占星術セミナー」なるものをやってみたい、と伝えたら、
「それ、面白そうだから仕上がったら教えてね。」
と言われた。
私は、幼少期のトラウマを抱えていたために自分のことがずっとよく分からなくて、自分のことを深く知るためのツールとして占星術にどんどんとハマっていったのだけれど、もしも私の学んだ経験によって、世の中の親子が笑顔になり、絆を深めることができたなら‥
このふと降りてきた直感を神様からの導きと信じ、私は昨日、オンラインで「親子関係を紐解く占星学セミナー」を受けた。
そして実はその数日前、病気で太ってしまったチワワを抱っこして長時間散歩した挙げ句の果てに腰を痛め、起き上がれなくなったので、セミナーを、カメラオフにしてベッドに横になりながら、痛みに耐えながら受けた。
私は、自分が幼少期に受けたトラウマと同じものを抱えているお母さんたちを笑顔にして、その子供たちにも大きな理想を夢見て自由に生きて欲しくて
末永く、親子が認め合い
幸せに生きてほしいという
願いを 深い所でもっている
そのことを思い出すと
私が幼少期に感じた絶望は、希望となり
輪郭すらもなかった
イメージの世界で存在していた夢は
現実味を帯びる
絶望も希望も 夢も現実も
「何がしたいのか分からない」と
彷徨う私の中に
本当はずっと前から存在していた
今は、大好きな故郷の海でゆっくり波の音を聞きながら静かに見守って下さっている彼女を想い、自分に出来る方法で「みんなを笑顔にしたい」という夢を、私も微力ながら引き継いでいきたい。
ゆらゆらと彷徨っていた私に、限りある命という時間の大切さを教えて下さった彼女に心から感謝し、同じ理想や志を持つ人たちと、地球を
「みんなが笑い合える場所」にできたなら
ほんとに素晴らしいことですね
一人一人ができることは
限られているけれど
小さなことが積み重なれば
やがて大海になる
私はこれから 繋がり合っていく人たちの
心に寄り添い 尊重しながら
いつも笑顔でいると約束するから
天国から 見ていてね
出逢ってくれて ありがとう