見出し画像

【復習】ジェンダー単元

コール&レスポンスをする


社会とわたし

社会のわたし

わたしの社会

社会で起きていること、目の前で起きていること(コール)に
応答(レスポンス)する

ミュージシャンのライブであるような個人間のコミュニケーションだけでなく
この世界で生きるということそのものが、コール&レスポンスなのではないか。

今回の講義では、男女間の賃金格差を中心的なテーマに社会構成主義の眼鏡を借りながら、ジェンダーギャップについて学んだ。

2023年にノーベル経済学賞を受賞したクラウディア・ゴールディン氏の研究成果を元に、男女間の賃金格差について見ていくと

➀工業化が進んでから仕事(収入)と家庭の両立の難しさから夫婦間で役割分担をするという選択肢を取るように…
②正規雇用(時間的柔軟性がない仕事)と非正規雇用(柔軟性がある)とするのが合理的である
③男性が仕事、女性が家庭という価値観が役割分担に影響している

その結果として、女性が非正規で働き、賃金が低くなっているということらしい。

このような課題が、家庭や個人に現れるものは
個人の自由や自己責任という論になりやすく
その社会的な構造に気づきづらい。
自分で選んでいるようで、社会構造の中で合理的判断として
選ばざるをえないだけなのかもしれない。

そして、個人の問題としてしまうことで
社会的に弱い立場にある人たちなど人々の間に連帯が生まれず
社会が動かない。


さて
ここまでなんとなく、男女というカテゴリー分けや
当事者ではない立ち位置から話してしまっていたが
ほんとうは、もっと「ひとりの人間」としてという視点で話したいと思っている。

わたしたちは、男女という既存のカテゴリーの中で苦しんでいたり
社会的立場に伴う責任を「取る」ということで、自分の言葉で語ったり自分の判断ができなくなっていたり
支援する人と支援される人、当事者と非当事者という構図に限界や、もどかしさを感じていると思うからだ。

もっと、立場というものより先に
その場(社会)に居合わせた自分として、行動できないだろうか。

たとえば、母親という立場で家庭の色々なことを抱え込み
押しつぶされそうになっている人がいるとする

そんな人を見たら、何か声をかけれないのだろうか。
できることをしようと動けないだろうか。
無視できるのだろうか。
そこに男とか女とか子供とか部外者とか関係あるのだろうか。

怪我をしている人がいたら「大丈夫?」と声をかけ、できる手当をする。
そんなシンプルな応答はもうできないだろうか。

制度の枠組みとか、責任の範囲外とか、当事者じゃないからとか
そう言うことしかできないのだろうか。

裏返しで考えてみる。

わたしは、自分が困っている時や苦しくてたまらない時
ちゃんとコールできるだろうか?
助けてって言えるかな、傷ついた顔を見せれるかな。

案外、一番くるしい時には声が出なかったりする。

過ぎ去ってから「あの時は大変だったよ笑」なんて話しちゃうんだ。

助けるのはいいとして、助けられるのは避けようとしてしまう。

なんだかなぁ

まぁ、人間なんて生まれた時から育ててもらう気満々の他力本願だし
許したり、許されたりを繰り返して生きているし

そもそも、何がその人にとって助けになるかなんてわかんないし
困ってる本人もわかってないこともある。

もっと、この社会に居合わせた1人として、社会課題(みんなの困り事)に応答していいし、呼びかけてもいいのだと思う。



「わかりあいたい」と「わかりあえない」の間で


今回は、コミュニケーションの難しさをヒシヒシと感じた。

ひとは特定のモノの見方をしている。
コミュニケーション(対話)を通して現実を生み出している。
客観的かつ本質的な真実など観察不可能。

私たちは基本的に言語を通して、コミュニケーションしているわけだが
言葉にとって文脈というものがいかに重要か考えさせられる。

それは、長い時間をかけて丁寧にキャッチボールをしていくということだ。

何か噛み合っていない、わかりあえていない感

それを、なぜわかってくれないのだ!と責めるのも
的外れなのだろう。

平行線で何も生まない。

何かちがうということを出発点に、対話してみる。

わかりあえなさに気づいた時がやっとスタートラインに立った時なのかもしれない。

わかりあえないもどかしさと、わかりたいという願いと

わかりあえない私たちが共にいるためには、という問いと。

わたしは、ジェンダー単元によって
あらためて、対話というものに向き合ったと思う。


いいなと思ったら応援しよう!