御本拝読「とにもかくにもごはん」小野寺史宜

食べるは生きる

 たくさんの美味しい料理の描写やレシピとハートフルストーリー……ではない。確かに出てくるごはんは美味しそうだが、本書に出てくるメニューは主に一つある日の食堂の一晩(正確には午後五時から八時の三時間の間)の群像劇である。
 とある住宅街にある、「クロード子ども食堂」。月に二回、高校生までの子どもは無料で、大人は三百円で、定食が食べられる食堂。交通事故で夫を亡くして高校生の息子と二人で暮らす波子が、元カフェの跡地でボランティアで始めた食堂だ。
 物語は、この食堂の客や関係者の語りで章が区切られている。各人、様々な事情や苦悩を抱えているが、クロード子ども食堂でご飯を食べている時は少しホッとする。そして、小さなリセットをしながらまた明日を生きていく
 それは、食べることが、人間が生きることの本能的な根幹だから。仕事や生き方、進路や老い先、人が悩むことは多い。それでも、何か食べなくては生きていけない。自分が食べたもので作られた体でしか、生きていけない。
 言ってしまえば、必要な栄養素とカロリーさえ摂れれば、それは別に手料理でなくていい。嗜好品やインスタント食だって美味しいし、幸福感もある。が、誰かが丁寧に作ってくれた料理は、そこに「誰かが自分のことを思ってくれた」という目に見えない、数値にに現れない、エネルギーを秘めている

新しい田舎の村

 本書の舞台は、繁華街や職場のある都会までは電車で一時間以内、駅までは徒歩十分程度という、典型的なベッドタウンの住宅街。近い距離に小中高がそろっており、自転車で通える範囲に大学もある。近年、どこにでもある新しいタイプの「田舎」だ。
 一昔前、「田舎」といえば、田園風景が広がり、都会へ出るなら日帰りは難しいほど遠く、おじいちゃんおばあちゃんが笑顔で待ってくれている……そんなイメージだろうか。そして、若者たちは「田舎」で育って都会へ進学・就職していく。が、現代でそんな田舎は本当にごく一部で、子・孫がいる世代が既に団地や住宅街育ち、ということも多いと思う。この新しいタイプの田舎に、子や孫も「帰省」したりする。
 新しい田舎でも、日本の村。昔ながらの慣習と現代のプライバシー意識が複雑に混在する、新しい村相互監視や仲間意識もあり、一方で自分の身内以外には容易に踏み込まない。私自身がそういう住宅街育ちだから、その厄介さが身に沁みる。
 そんな中で、機能不全家庭や問題のある親の元で育つ子供たちがいる。昔の田舎なら、誰かが世話を焼いてくれたかもしれない。しかし、新しい村では、見て見ぬふりをされてしまう。そんな子たちも食べることは重要で、「クロード子ども食堂」はそういう子の受け皿として存在する。
 子ども食堂が、そういう子たちの毎日・毎食を支持できるわけではない。月に二回、夕ご飯のみ。それでも、食堂が提供するのは無料のご飯だけでなく、安心して長時間いられる場所であったり、ささやかな人との交流だったり、これもまた目に見えない生きる力である。
 ここに来れば、誰かいる。話してくれる。繋がっている。食べることと同じくらい、「誰かと繋がっている」感覚は、大切なのだ。

性別は関係なく

 ハートフルな小説を書かれている小野寺さんだが、毎回「作者は女性?」と思ってしまう。それぐらい、女性(特に、結婚・出産経験のある兼業主婦や子育てに悩む女性)の心の機微の描写が上手なのだ。本当に経験があるベテランの女性作家さん達よりもうまいと思う。
 それは料理の描写にも表れていて、本当に食材や調理の過程、献立の組み合わせなどがとても自然だし愛情深い。実際に、小野寺さん自身が子ども食堂を運営されているような感覚になる。
 もちろん、参考文献や取材の結果でもあるだろう。しかし、性別を超えて、食や子どもへのあたたかい眼差しを感じる。
 女性だから家庭的、子供好き、というのもジェンダー的に問題だろう。だが、傾向として、女性の方が料理や子育てについては経験値を含めてよく書かれると思う。小野寺さんは、そんな小さな壁は超えている作家さんだ。この人の描く、現実的でシビアなところもあるけれど光や望みのある話を、これからも読みたい。

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