御本拝読「陰陽師 水龍の巻」夢枕獏

愛しい安心毛布

 学生時代から、新刊が出たら買い集めているシリーズのひとつ。ハードカバーと文庫の両方をそろえるお金がないので、文庫の発売を楽しみに毎年待っている。学生時代から読んでいるシリーズの中には、自分の感性が変わってしまって読まなくなってしまったり、作者や出版社の意向が自分とは合わなくなって離れてしまったものもある。そんな中で「陰陽師」シリーズは、いつだって、私を受け止めてくれる。
 それがいいことかは置いておいて、物語のパターンが決まっていると人は安心する。アンパンマンはばいきんまんを倒すし、黄門様は悪を懲らしめる。分かっているから、なんとなく毎回観るし、過度に期待も失望もしない。毎日夕飯がドレスコードのあるお店でのフレンチのフルコースだと疲れるが、部屋着でテレビ見ながら食べる普通のおうち和食が毎晩続いても疲れることはない。そこは、「ホッとできる」「安心できる」ところだ。 
 私にとって、「陰陽師」は、それにあたる。体に優しくて、リラックスできて、ゆっくりと自分の中にしみ込んでいく栄養満点のおうち和食。外で気張った分、ベッドで抱きしめてひたすら甘えられる安心毛布。コンスタントに、ほぼ毎年その新作が提供される喜びは貴重だ。
 なぜ今回、長編含めたたくさんの巻の中からこれを選んだかというと、なんのことはない、私の大好きな源博雅がその良さを発揮しまくっている巻だからである。長編「生成り姫」でも主役の晴明よりも印象深い役回りだったが、悲劇の主人公感が強くてこちらまで感傷的になってしまう。本著「水龍の巻」は、博雅の魅力をシンプルにぎゅっと詰め込んだ一冊な気がしている。

時流にも乗って

 博雅への愛を綴る前に、書いておかねばならないことがある。本著は、いつもの短編集とは少し趣が異なり、「陰陽師」シリーズ外のものも含まれている。これも、私が本著を推したい一因だ。
 中編「蘇莫者」は、登場人物こそ「陰陽師」メンバーであるが、メインは蝉丸法師である。晴明の陰陽の法や博雅の楽の才は事件の解明に大きく関与するが、大本は蝉丸の昔の儚い恋の話である。あとがきにあるように、朗読劇のシナリオの原案となるものである。故に、いつもの短編とは重点の置かれ方が違う。
 蝉丸がメイン、ということは、やはり音楽の表現(本作では、舞の表現も)が際立つ。それが、あらためて素晴らしい。私は、この人の書くこの表現が好きだなあとしみじみ感じ入る
 今、ネット上でのショート動画や生配信が全盛だが、私がそれにまったく興味を惹かれない理由が唐突に分かった気がする。画面や回線を通して、何回でも自分の好きな時に再生できてしまうものに、あまりありがたみを感じないのだ。
 平安の時代、録音機も再生機もない状態で音楽や舞を習得するには、師となる人の演奏なり舞なりを何度も直接見て練習するしかない。そうやって人の間を伝わってきたものには、何人もの「念」「途方もない時間」が積み重なっている。それが凝縮して、ただの音・動きではなく「芸術」として輝きだす。その過程が、本当に美しく表現された一遍だ。
 最近、本当に久しぶりに芸能の舞台を生で見た。生身の人間がその場にいて、加工も編集もできない生の時間、画面上の投げ銭もない生の「芸」を見ていた。技術やネットが進化していっても、人の心を動かすのは、こういう「芸」であってほしい
 同じく中編「赤死病の仮面」は、まったく「陰陽師」の面々は出てこない。時代が同じ、というだけである。エドガー・アラン・ポーの小説へのリスペクト作品だが、全体として陰鬱で救いがなく、何よりもここ3年間の現代世界の動きとリンクしている
 それでも、暗い気持ちにはならないのが不思議だ。心地の良いシニカル、というか、アイロニカルというか。書かれた時期を見るに、まさか現実世界がこういう流れになると予想されていたわけではなかろうが、ゆっくりと我々もそれをなぞっている気がした。

源博雅という男

 さて、源博雅である。私の、好きな創作上の人物(いや、彼は実在もしているのだが)の中では間違いなくトップ3に入るほどの好人物である。まぎれもないやんごとない出自(天皇にほど近い血筋の家の男子)で、生まれながらにして音楽の神に愛された人物。それだけでも十分に色々と偉いし、堂々と偉そうにして当然だし、御所の外のことなど一生知らなくても不思議ではない。
 なのに、本人にまったくその自覚がない。ふらふら一人で夜中や街中にも歩いて出かけるし、身分の上下関係なく人と接してはごく普通にコミュニケーションがとれている。本来は、晴明も、気軽に濡れ縁で酒を酌み交わせる身分ではない。
 この男、非常にかわいい。容姿の描写は、すらっとして美麗の晴明とは対照的な、骨ばった輪郭に目がぎょろりとしてがっしり体型(建前的にも本人の心情的にも「武士」なのだが、おそらく本当に彼を「武士」だと認識しているのは彼自身のみ)のごつごつの成人男性。別に女性らしい性格だとか、趣味が女性らしいわけではない。なのに、かわいらしい男なのだ。
 とにかく、人にも怪にもどこまでも優しくて人が好い。晴明と行動しているから怪のものに慣れていることを差し引いても、困っている・悲しんでいる様子の人や怪を見ると「どうしたのだね」「私で力になれることはあるかい」と尋ねてしまう。そして、本当に解決に導いて(晴明の力を借りるとしても)心を救ってしまうのだ。
 博雅の楽の音が素晴らしすぎて、神仏や妖物の類が心動かされたり寄って来たりすることがよくある。それは、もちろん技術的な高度さもあるのだろうが、奏者である博雅自身の曇りのない美しい精神がその音に現れているからだ。
 私は単なる趣味のピアノやベース奏者に過ぎないが、技術とは別のところにその人が奏でる音の要素はある。「上手いだろう」「どうだ聴け」という意図が丸わかりの人と、「弾くのが楽しい」「この曲が好きだ」という気持ちだけで弾いている人は、後者の方が聴いている側も気持ちが良い。おそらく博雅はそれが極まっていて、人よりも感覚が鋭いであろう神仏すらもその美しい心に惹かれる。
 晴明は、その最たるものと言えよう。人の世をどこか遠く冷たく見ており、都はもちろん、人がどうなろうがあまり興味はなさそうだ。そんな晴明が博雅とつるむのは、音はもちろん、行動や言葉でもその心に触れて、「人も悪くないな」と思い自分と現世をつないでいるからだ
 博雅の音楽の才はもともと抜きんでたものなのだろうが、本人の努力も並々ならない。彼は、人にも怪にも音にも、常にひたむきで真摯だ。本書には、特に博雅のそういった美徳が詰まった話が多い
 私の好きな他の巻の話に、「博雅の結婚」の話がある。何も知らない博雅が、新妻のいる部屋へだまし討ちで押し込められ、そのまましきたり通り新婚の儀式(三日三晩夫婦だけで過ごし、かための餅や盃、契を交わす)にも気が付かず三日間ずっと楽を奏で、音について語り続けるという、博雅らしさ全開の話だ。
 晴明も呆れ気味で聞いていたが、新妻の反応が素晴らしい。「なにやら笑っておられた」らしい。その後離縁した様子もないので、うまくいっている様子。そういう女性でないと、無理だろう。
 そして、そういう女性を、あらかじめ周りが決めて固めているというおかしみ博雅という男、晴明を筆頭に、どうも周りの庇護欲や世話欲を無意識にあおっている。話によっては怪や悪人すらも博雅の無垢さに戸惑う様子がある。自然と周りを味方にしてしまう、ある意味、シリーズ中で最強の男なのかもしれない。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?