御本拝読「わたしのすきなもの」福岡伸一
文理の壁を超え
福岡伸一先生は、言わずと知れた理系の大家。しかし、文章が面白いというか、エッセイやコラムが本当に読みやすい。理系だとか文系だとか、本来は分ける必要ないのになあ、と福岡先生を見ていると思います。まあ、主に大学受験というシステム上、文系と理系を分けることで便利に管理できるんでしょうけど。
本書は、「婦人之友」に連載されていたコラムをまとめたもの。載っていた媒体の性格上もあるのでしょうが、福岡先生を知らなくても、生物分野にまったくなじみがなくてもするりと読める一冊です。こういう、自分の中にある膨大な知識や経験を簡単な言葉や素人にも分かる書き方で分かりやすく伝えられる人が、真の知性を持った人なんだろうな。そこに、○○の分野の人だとか理系だとか文系だとか関係ないなと思います。
本書には、福岡先生が好きなもの(愛好、愛着、等、様々な思い出と結びついたもの)がテーマ。昆虫や生き物、文房具、食べ物、多岐に渡ります。同じ経験がなくても、似たような郷愁や慕情を感じることはできる。そんな、福岡先生とのまったりタイムスリップ。
独自のまなざし
たとえば、「青い蝶」についての項。蝶の翅の青は、着色されたものではなく、ガラス状の層が青い光だけを反射しているから我々の目には「青」として映っているだけ。同様に(正確な仕組みは違えど)、空や海の「青」も、そこに「青」が存在しているのではなく、「科学の過程や結果」として「青」に見えるだけ。
しかし、その「青」を、福岡先生は愛している。そっと両手で包み込むように、慈しんでおられます。それはある意味「目には見えないもの」「存在しないもの」をあたたかく愛することができる、という能力です。
昆虫の生態に対しても、彼らにとっては単なる過程でも、福岡先生から見ると、とても美しく愛しい瞬間や尊い瞬間。それを、優しい言葉とやわらかな感性で他人に向けて表現することができるのは、本当に素晴らしいこと。
本書を読んでいて感じるのは、福岡先生の中の「孤」と「繋」のバランスの絶妙さです。研究職、それも、若い頃には遠くアメリカの地で奮闘された苦労や、一人で静かに昆虫や現象を観察したり深く考察する思考の時間。それは果てしない「孤独」や「冷たさ」の中にあったのかもしれません。一方で、優しく器の大きなお母さまとの思い出や、折々に触れ合う人々との交流は、かけがえのない「繋がり」であり、確かな「あたたかさ」です。
人は、あたたかさしか感じていないと、慣れてしまってそのありがたさには気づかなくなります。逆に冷たさしか与えられなければ、心が荒みきってしまうでしょう。どちらも、過剰だとうまくまわらないもの。
いつも誰かと一緒にいないと嫌だったり、常に誰かの考えに同調してばかりだと、自分の頭で考えることも感じることもできなくなってしまいます。反対に、他者を寄せ付けず自分ひとりで生きていれば、どうしても独りよがりになりがち。
一人で苦しみに耐えたり、一人でじっくり考えたり何かを発見したりすること。誰かと触れ合い、優しさを与えてもらえること。その両方があるからこそ、福岡先生の眼差しはとても深く、あたたかい。そこに冷静に研ぎ澄まされた知性が加わるから、福岡先生の文章は、世界で一つの素敵な文章になっているのです。
連続する不思議
さて、ここからはあまり本書の内容には関わりありません。が、ちょっと書きたくなったことを。
本書を読む直前、イラストレーター・真鍋博さんの本を読んでいました。本書を読む際、そのことはまったく意識していなかったのですが、本書には真鍋さんの息子である真鍋真氏と福岡先生の対談が載っていました。
読書を長く続けていると、こういう奇跡が起こることが増えてきます。たまたま師弟関係にある人たちの本を連続して手に取ったり、同時に手に取った数冊の中に、同じ人が出てきたり。
意識して探したり、キーワードで検索したりすれば、そういうこともあるでしょう。しかし、そうではなくて、そぞろ歩きで寄り道したら宝物を見つけた!みたいな経験は、読書趣味の人間にとってはとてもうれしい出来事。
本が、自ら意思を持ってこちらに寄ってきたような奇跡。見えないなにか、という非常に非科学的な何か。そういうものに出会う度、色んな本を読む醍醐味を感じる今日この頃でした。
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