御本拝読「いも殿さま」
繁忙期で目と心が死んでおります。夏……接客業に従事していると絶対に避けられない繁忙期の夏……今年も私に盆休みなどなく、それどころか家族持ちの正社員と実家に帰省する学生バイトの穴埋めで恐怖の連勤です。愚痴くらいは言わせてくれ。なんでボーナスも3年以上の契約更新もない非正規が一人でここまでやらんといかんのか、と。
そんな荒んだ私の心に一服の清涼剤。土橋章宏さんの「いも殿さま」。読んで久しぶりに「こういう本がめっちゃ評価される世の中であれ」と思いました。
まず、私が個人的に大学時代~フリーター時代に大変お世話になった島根県が舞台であること。もちろん、石見国・大田市も何度も行きましたし、山陰地方には今もずっと愛着があるのです。その時の印象も、小説の中で描かれる石見国も大きな差はなく、郷愁に浸りながら読みました。
江戸時代に実在した、石見国の代官・井戸平左衛門が、遠く離れた薩摩国より「さつまいも」を密かに取り寄せて石見に根付かせ、飢饉や貧困から民を救おうとするお話。と、めちゃくちゃ簡単にあらすじを説明してしまうとこれだけで済んでしまうのですが。その中にどうしようもない悲劇や人間の情がこれでもかと詰め込まれていて、読後感が重い(悪いではなく)というか、大河ドラマ一年分を一冊で読んでしまったような重量感があります。
土橋さんといえば「超高速!参勤交代」をはじめ、スピーディーで溌溂とした作品(映画脚本含む)が多く、読んでスカッとする系の作家さんだと思っておりました。本作も確かに、登場キャラクターは最初はコミカルに描かれていたり、映像化したらウケそうだなというシーンも多かったです。が、それは前半の井戸平左衛門が石見へ着くまでや薩摩でのごたごたなど、全体から見ると少ない分量。むしろ、多くの場面が蝗害等のどうしようもない厄災や政治・交通的に重要でない故に蔑ろにされる田舎の悲哀に割かれていて、各キャラクターの性格描写も非常に繊細で丁寧。「超高速!参勤交代」と同じ作者だとは、言われないと気付かないとすら思う。
井戸平左衛門が主人公ではあるのですが、主な語り手、物語の進行は井戸平左衛門の用人・藤十郎。読み終えると、この藤十郎が唯一のコメディリリーフ。自尊感情が強く、本人は真面目なつもりでもいつも軽薄で詰めが甘く浅慮で、良い奴なんだけどちょっと残念。憎めない三枚目。本文中では言及されてませんが、むしろご主人である井戸平左衛門が、ちょっとアホ犬(誉めてる)っぽい藤十郎を優しく見守り成長させていた節すらある。
もちろん、胸がすくような展開や発想の勢いでぐいぐい読める、土橋さんの筆のエネルギーもしっかり感じられます。大胆で論理的、という読んでいて楽しい一冊なのは変わりません。
お話の結末から逆算すると色んな「ありがち」シーンが次々と覆されていき、そういう意味で新鮮な時代小説でもあります。私もよく時代小説を読みますが、大概は「おきまり」のパターンやシーンで飽きてしまうことも少なからず。それはそれで、時代小説の醍醐味であるとは思いますが。この「いも殿さま」はそういうご都合主義や主人公補正も本当に一切全く(ここを強調したい)なく、最後までどういう決着になるか分かりませんでした。
大団円、にはなりません。いや、なにをもって大団円なのか、ということに読者が思いを馳せるまでがこの本の力でしょうか。切なく、しみじみとした優しい風が吹くラストです。
そして残念ながら、ある程度の脚色や創作があるとはいえ、今も地域や国、もっと言えば人間社会の構造や進み方はあまり変わっていないということ。政治批判をしたいわけではなくて、むしろ、会社や家庭というミニマルな人間の集団で、こういうことは起きているよな、と。
頑張った人、耐えた人が救われるわけではない。努力や優しさが報われるわけではない。それでも、行きつ戻りつしながらでも、前に進もうとする人には必ず何かしら道が開かれる。その道が険しくとも、ましてや自分の期待通りでなくても、生きている限りはそこを進まなくてはいけない。そんな時に、一人ではなくて、心を許し信頼できる人たちがいたら。という話でもあります。
が、井戸平左衛門一人の胸の内で静かに固まっていた決意や、さまざまなことを見据えてその都度果敢な判断を下す、リーダーシップの孤高さを描いた話でもあります。
連勤といつも以上に厄介なことの多い繁忙期のせいで心ささくれ立っていた私ですが、もうちょっと頑張ろう。そう思える一冊でした。
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?