聖母マリア様
だいぶ間が空いてしまいましたが。
前回「始まり」の続きです。
よろしければ読んでいってください。
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母方の祖父母にとって初孫として生まれた私は特に祖父に可愛がられ、幼稚園〜小学校の8年間、カトリック系のお嬢様学校へ通わせてもらう事ができた。
(弟を含め従兄弟4人の中で特別待遇は私だけ。祖父に感謝)
後に中学へは私本人の切なる希望で近所の子達と同じ公立中学に進学した為、クラスメイトから「あ!この子、知ってる!カラスの子!」と呼ばれる羽目になるのだが…。
当時の制服が黒いジャンパースカートに黒いジャケット、黒い革靴、黒い帽子、黒いランドセル…白いブラウスの襟の下に付けるリボンだけが唯一、赤でほぼほぼ黒かったので近所の子達からは「カラスの子」と呼ばれていたのだと中学に進学してから知った。
それにしても全身黒いからカラスの子とはなんとも幼稚な発想。
私がどれだけ赤いランドセルに憧れていた事か…。
そんなカラスの子は近所に私ひとりではなかった為、小学校低学年まではスクールバスもきてくれていて同じ場所から数人のカラスの子がバスに乗って学校に通っていた。
高学年になると数人のカラスの子はスクールバスを卒業し、電車に乗って通学するようになった。
地元のローカル線はちびまる子ちゃんでお馴染みである。
カラスの子達は学校に着くと必ずマリア様の像の前で祈りを捧げる。
週に1回は学校内の教会でロザリオを手に数えながら祈りを捧げていた記憶もある。
湧き上がる記憶。鮮明に脳に聖母マリア像が見える。
別にキリスト教徒ではない。生徒のほぼ全員がキリスト教徒ではなかったと思う。
でも学校では百合の花を手に持ち、学校内をゆっくりゆっくり歩いて進み聖母マリア様に祈りを捧げる儀式があったり、クリスマスには必ずキリスト誕生の劇をやったり聖歌を歌ったり、皆で行事を行った。
幼稚園から小学校低学年までは背中に羽を付けて天使の役もやった。
バザーの時はシスターの手作りクッキーが美味しかった。
誰1人としてそれを馬鹿にする人間はいなかった。みんなそのままを素直に受け入れて言われた通りに祈った。それが私立の学校の行き届いた指導なのだと思う。
もちろん他の学校同様に運動会もあったし、クラブ活動や陸上もやっていた。私は園芸部で花壇の手入れをしながら、ハードルを跳んでいたし、ミニバスもやっていた。活発な少女時代だったと思う。
私が通っていたその学校は、あのキムタクの娘、多分Kōki,ちゃんの方が少しの間だが通っていたと地元の友達から聞いている。cocomiちゃんがこども病院に入院していた期間があったのは有名な話だ。
当時はキムタクや工藤静香が国1(国道一号線)を走ってた!すれ違った!と大興奮で連絡してきた友達が何人もいて、「へ〜よかったね」と返していた。ちなみに私は工藤静香の大ファンである。
話を戻すと、そのくらいちょっとお嬢様な学校なのだ、小学校までは。
なぜ小学校までかと言うと小学校までは男女共学だった為だ。
中学からは女子校になるので、小6になると女子は全員、校長様(校長先生ではなく、シスターなので校長様とお呼びする)と面接を行い、そのままエスカレーター式に中学へ進学するか?その他公立中学への進学を望むのか?希望を聞かれる。
私は迷わず「公立中学へ行きたいです」と希望を出した。
校長様は「なぜ?」と聞かれる。
「女子校は嫌だからです」とハッキリ言ったのを覚えている。今は亡き校長様の優しいお顔も目に浮かぶ。
当時はエスカレーター式に中学へ進学すると受験組が入ってくるので、お嬢様学校とはとても言い難い、まるでヤンキー校のように中高の校舎は荒れていた。あんな中に入っていくのは絶対に嫌だった。
今は、私の卒業後…数年経って校舎の立て替えがあったり、新しく聖母マリア像が建てられたりしていたのを通勤途中に見ていたので、きっと美しいお嬢様学校になっている事と思う。
もうとっくの昔に制服も変わっているが、私はカラスの子だった事を誇りに思う。
そして、私の本当の母は聖母マリア様なのだと心の中で誤魔化す事で毒親育ちの自分をなんとか支えて生きている。
いつの日かまた富士山の麓にいらっしゃる聖母マリア様に会いに行きたい。
(続)