映画『ノマドランド』〜私も漂流してるのかも〜
Ashさんのレビューを読んで未見だった『ノマドランド』を見たくなり、アマプラで鑑賞した。Ashさんありがとうございます。
この話、私にとってはデラシネの物語に映った。「だれも漂流者になりたくてなったのではない」と言われる方がいるかも知らんが、自分でその生き方を選んだのであれば話が変わってくる。ドロップアウトしたと自覚している者には卑屈さが見え隠れするが、自分でそれを選んだ者には誇りが見える。主人公のファーンは、ノマドという生き方を選んだ人、誇りを持っている人。
私自身は、根なし草とまで言えば格好つけすぎだけれと、大地を掴む音が弱いのでチョロチョロと漂流してきたような自覚がある。ノマドという生き方には親近感がある。
集団に合わせることはできるけれど魂までは売れない。完全な孤独に耐えられるほどタフではなく、どこかで人の温もりは求めている。働いて最低限のお金は確保し社会の恩恵を受けている。移動しながら社会の片隅に居場所を作っている。彼女は、自分がアメリカ人であることを生き抜く上でストロングポイントだと自覚している。私もこの時代に生まれた日本人であることが生き抜くストロングポイントだという自覚はある。荒野を旅して生きる覚悟はないが、いまや毎日静かに旅をしているような気分でいる。親近感持つなぁ。
ファーンの生活を覗き見して、人を留まらせるのは、家族を持つことだと当たり前の事に思い至る。人間は家族をつくりみんなが近くで暮らして助け合ってきたのだから。
たき火を囲んでノマドたちがいまの暮らしを選んだ理由を語るシーンがある。語り手は、皆それぞれの人生経験を積んだ長き旅人であるオールドマン、オールドウーマン。一度は自分の家族を持ったけれど、何らかのつまずきによって家族と別れ、居住場所を持たない今の暮らしを選び、そして続けている。ファーンも同じ。結婚して都会から離れ人口が200人ほどの砂漠で暮らしていた彼女。一緒に暮らしていた夫が亡くなり、しばらくはそこに留まりひとりで暮らしていたが、街に一つだけあった働き場所がなくなってしまった。姉のところに行く選択肢もあったろうが、それも選ばず「ノマド」の生き方を選んだ。
子どもの頃からエキセントリックで人の選ばない道を歩いてきたファーンを知る姉は、自分の心の中にある憧れを手に入れている妹にどこかで羨ましさを感じていた。映画を見てファーンの姉と同じような感想を抱くものもいるのだろう。そんな人に響く映画のようだ。
☆
この映画のもう一つの主人公は、ネバダ、ネブラスカ、アリゾナ州の厳しくも美しい自然の風景。大いなる自然(かみ)を前にして人間はとてつもなく小さな存在なのだと自覚した時、いっとき人間社会から離れ自由になった気分になることを映像を見るだけで思い起こせた。
この先人間が皆トラディショナルな生き方に戻ることはないのだろうが、「ノマド」の生き方になんとはなしに安心感を覚えるのは、大事なものがそこにあるからだろう。
国立公園に展示された恐竜のオブジェが2度ほど出てきた。ファーンと恐竜のシルエットがとても美しかった。
エンドロールを見ていたら、妄想が浮かんだ。未来の人類なのか、はたまた人類以外の地球の覇者なのかを我々に確かめることはできないが、いつの日にか現代人の模型が酸性雨の雨降る地球のどこかに展示されるのかもしれないなんて。