鎌倉散歩 文学史に残る海棠に会いに行こ 本覚寺~妙本寺
大正14年(1925)23歳の春、小林秀雄は中原中也と出会った。
「中原と会って間もなく、私は彼の情人に惚れ、三人の協力の下に(人間は憎み合う事によっても協力する)、奇怪な三角関係が出来上り、やがて彼女と私は同棲した。この忌わしい出来事が、私と中原との間を目茶々々にした」と『中原中也の思い出』に綴られてる。
中也との間で織りなした悲劇と友情。
「あの日、中原とふたりで見上げた海棠(かいどう)は美しく哀しく、そして今、悔恨の穴は深くて暗い」と結んでいる。
記憶に残る海棠の美しさが、己の心の醜さを照らし出して物悲し。
雨予報だったけれど、晴れ間が覗いたので海棠咲いてるかな、と鎌倉の妙本寺に行くことにした。
そう、妙本寺の海棠こそ小林秀雄と中原中也が二人で見上げた銘木なのだ。見に行こ。
果たして見頃を迎えてるんだろか?そうであれば、悔恨を抱えた小林秀雄が顔を出してるかも知らん、なんて。
ここもお花の寺。大巧寺(おんめさま)の前です。入りたいけど我慢して歩こ。ここもきれい。安産祈願のお寺です。
渡って、左に曲がれば、まもなく妙本寺。
二天門は、天保年間に造立されたもので、柿渋から作った弁柄で赤く染められており、正面の鮮やかに着色された鳳凰のような翼を持つ二頭の龍の浮彫が見事。左右の二天(左が阿形・毘沙門天、右が吽形・持国天)も大迫力。
本堂に到着。お目当ての花海棠がありました。
中也の有名な詩。スキな詩。
若い頃は、意味はともかく物悲しいリズムが好きだったんだなぁ、と理解。あらためて読むと、何だか不穏な詩。
野原で酒を喰らい、遠くの時代にあってセピア色に見えた戦争に思いを馳せたら、突如幻想が現れた。粗末なテントのサーカスにぶら下がった男がブランコを揺らしてる。ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん という響きとともに、一漕ぎ毎に近づいて大きく見える。ブランコはいつしか、パラシュートに変わって、眼の前を降りて来そうだ。
軍靴の響きが近づいてくることを連想させる詩だった。
平和な世界が続くことを、日蓮聖人を見上げながら想う。
ダンスがしたくなるような、午後の日差し。美しい一日。
妙本寺と云えば、比企一族の墓があるところ。比企能員は頼朝亡き後、隆盛を誇るかに見えたが、北条時政と政子の策略によって1日でいとも簡単に滅ぼされてしまった。ここにも、遠い昔の戦(いくさ)の影がある。
墓に花を盛る
太陽の恵みは半端ない。写真撮ってたので気づいたけど、お寺に着いてから1時間のうちに気温が上がって花がシャンとした。どんどん開いてる。
植物の生命力は凄いな。
毎年時期が来れば咲き誇る海棠。花の命は短く、忘れた頃に蕾をつけ、いっとき美しさを魅せたと思えば次々と散ってしまう。中也もその儚さを感じながら詩を紡いでたのか。もうほぼ100年も前のことになった。
妄想がヤバっ。
なので、さらに海棠づくし。パシャッ。
風が出てきて八重桜が、ひらひら舞い始めた。これぞ、日本の春。源平咲きに見える。白からピンクに変わるのだろうけど、明らかに違う色が見える。
今日は雨どころか、良いお天気になって撮影日和。令和6年の平和な風景を残すことにしよ。
鎌倉散歩 海棠を訪ねて 妙本寺~海蔵寺 へ続く
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