「食事は死への情事であった」アラーキーかく語りき。
うつせみヤさんの記事を読んだら、アラーキーの写真を久しぶりに見たくなった。
紹介されてた『食事』は、未見。
ぽんと思い出すのは、写真時代やガロの連載のコーナー。そして、『センチメンタルな旅 冬の旅』
改めて開いてみた。アラーキーの陽子夫人への愛し方が半端なくて憧れる。
当時は「お葬式で写真撮るのが供養なんだなぁ」と写真家を羨んだ。
今なら、きっと娘に止められるだろうと思ったが、対象を失っている現実がちょっぴり哀し。
それにしても便利な時代。ネットサーフィンすれば、簡単に時が戻る。末井さんとアラーキーの対談まで読めた。
昭和をくぐって今があるなぁ、とつくづく思う。
「昔は良かった」なんて決して思わないけれど、当時の熱はきっと戻らない。もちろん良くも悪くもあるので両手を上げて賛成はしない。やばいこともたくさんあった。ファナティックな熱なら要らないが、パッションがなければ愉しみは減る。
「かつて私は、現実を超え、現物(エロス)を感じさせるものが女優と『広辞苑』に内緒で定義したが、実は女はすべて現実を超えていて現物なのである。女はすべて女優なのである」
by 荒木経惟
まあ勝手な物言いなわけだけれど、熱情と邁進するエネルギーは溢れてる。本能的に理解できるものを提示されれば返す言葉はない。
女性を仏に見立てた菩薩信仰、俗を御旗に立てたアナーキーな考えが民衆を味方につける。そして、時代を超えていまも続いてる。
83歳のアラーキーは、素人の女性を撮り続けてる。その源にある泉は枯れることがない。
個人への愛が、万人への愛に昇華したのか、万人への愛を知っていたので、個人への情が深かったのかは知らない。
賢明な翁なら「もともとそういうものだろ」と言うかなあ。例えば深沢七郎翁とか。
『食事』はいまや絶版の希少本らしい。
前半はカラー、後半はモノクロ。命の瀬戸際にあった陽子さんの手料理が写ってる。「食事は、死への情事であった」は、アラーキーの言葉。
生と性と死はひとつながり、誰もが関わりのあること。命の灯火があるうちは、日々を味わい尽くすこと。生老病死は逃れられない宿命。できないことがあったり、年を重ねてそれが増えても代替えできることもあるはず。何だか、希望の写真集のような気がしてきた。
残された者が、輝きを失っていないことがその証。