コミュ欲
コミュニケーション能力の事を若者はコミュ力と訳す。コミュ力は他者との共同作業の上で意思疎通や円滑な関係を築く時にとても重要になってくる。
だが勉強やスポーツが得意ではないのと同じで、コミュ力のない人間が存在する。
それを若者はコミュ障と訳す。
サラリーマンのこの男はまさにそれであった。子供の頃から人見知りでコミュ障、おまけに赤面症。そんなもんだから対人関係が上手くいった事は全く無い。だから学生の頃は一人も友達が出来たことは無い。
そんな可哀想な人間だった。
そしてそれは社会に出た今も変わっていない。
男は今日も黙って電車に乗って、黙って会社について、黙って業務をこなして、黙って家へ帰るのだった。
それはとても虚しい日々だった。
ある日、男は変わらない自分の生活にとうとう嫌気が差したのだった。
深呼吸し、「よし!変わってやるぞ!」大きく呟いた。
だが何をしようか?男は息を吐いた。早速詰まってしまった。
何をやったら根本的に根暗で消極的な自分を治せるのだろうか。こんなにも根っこが絡まっているのならば、もう直せないのではないか?そう思ってしまった。
だが、次の日も自分を変えたい、その気持は変わらなかった。今日から本気で考えよう。そう思ったが吉日、ひとまず近くの神社で神頼みをしてみようと考えた。
神社の賽銭箱に小銭を入れて、願った。
コミュ障が治りますように。僕のコミュ障が治って人間関係が上手くいきますように。
しっかり力強く手をはさみ、願いを込める。
そして、数秒たち我に返った。
「まぁそんな事、神は聞いちゃくれないか」
その時だった。男の前に長く白いヒゲを生やし浮いているお爺さんが現れた。そして言った。
「ワシは神じゃ。お主の願いを叶えてやる。
お主のコミュ障とやらを治す欲望をやろう」
「欲望?どういうことです?」
「簡潔に話すと、人と話したくなる欲望じゃ。この欲望さえあればお主はたちまち人と話したくなり、自分には出なかった勇気が湧いてくる。そのままお主は同棲だろうが、異性だろうが、上司だろうが関係無く誰とでも仲良く話すことが出来るようになるぞい」
男は目を輝かせて言った。
「それはいい!ありがとうございます神様。この恩は一生忘れません。」
何度も礼儀をした後、早速会社に向かった。
すると驚いた。人と顔を合わせるだけで話したくなるではないか。
男は欲望のままいろいろな人に話しかけた。
話しかけてみると案外みんな悪い人ではなく、男と笑顔で楽しく話をしてくれた。
男は嬉しくなって、心の中ではしゃいだ。
そして次の日も男は会社でコミュニケーションを積極的に行った。
するとどうだ、友人もできた、仲の良い後輩もできた。そしてなんと彼女もできたのだ。
その日々はたまらなかった。中身が閉ざされていて知らなかった青春の味を今、男はこれでもかと言う程に堪能している。
戻ってきたんだ!僕の青春が!戻ってきたんだ!僕の人生が!
毎日が弾ける炭酸のようだった。
だが炭酸は抜けていくものだ。
ある日のことだ。男は彼女とのデートで美術館に行った。その時も男のコミュ欲が発揮して、いつものようにペラペラと喋っていた。
すると、突然彼女が静かに怒り出したのだ。
「ねぇ!ここ美術館だよ?周りの迷惑になるし、私ももっと作品をじっくり観たいから静かにして!」
男は我に返った。
「あっ…ごめん。ちょっと夢中になりすぎてた」
彼女は許してくた。が、男は彼女に欲望を遮られたせいで余計に喋りたくなってしまった。喋るな、喋るなと思うほど、どんどん喋りたくなっていく。両手で口をオーバーに止める。だがこうしなければ、ちょっとした隙に言葉が溢れてしまいそうだった。
そこからだ。そこから男は無言でいることが出来なくなってきたのだ。電車の中にいる時もボソボソと喋らなくては不安になってしまう。会社の中でも道を歩いている時でも店の中でも、
ボソボソボソボソボソボソボソボソと喋ってしまう。
男は自分でも流石にまずいと思っていた。
ふと周りを見てみるとやはりそんな男を皆が見ている。
男はまたやってしまったと後悔の文をつぶやき始める。
次第にどんどんストレスが溜まっていき、辛さに耐えられなくなってきた。
その癖を治したくても治せない、厄介なものだ。
男の口はだんだん体の一部から違う生き物へと変わっていく。
口は意識していないのにパクパクと言葉を発するようになった。
それは加減を知らない。
口は24時間永遠と言葉を発している。
男の精神を憂鬱と共に言葉が侵食しにきている。
男は電車へ揺られながら会社へ向かう。
真っ黒なクマがべっとりと目の下にこびり着く不健康そうな顔でボソボソと喋っている。どこでも、どこまでも。
そしてまた男は電車へ乗り、会社へ行き、帰り、そしてまた電車へ乗り、会社へ行き、帰り、、、、、、、、、
深夜の事だ。とある女が目を覚ました。
力の強い雨が窓を刺す。その音で目が覚めたのか。そう思った。
だが違う。
「何?雨の中から何か聞こえる。ん?これは……隣の部屋からだわ。今はこんな時間だっていうのに一体隣人は何をしてるの?うるさくて寝れたものじゃないわ!」
隣の部屋は男の部屋だった。
男の部屋は酷く荒れていた。
ぐちゃぐちゃに積まれたごみ袋や食べ物、倒れて壊れた家具、ボロボロの服の山、そこから溢れ出るゴミや虫。
こんな所に人が住めるものなのか。
だが、そこに喋り声が聞こえている。
男の喋り声だ。
そして男はそこにいた。
そこにはぐちゃぐちゃに汚れた床の上で、ちゅうずりになって首を釣っている男の死体が雷の光に反射していた。
驚くべき事に、男は死体になった今でもガラガラに割れた声で一人、ボソボソと喋っていた。