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自由とは何か。~自由を求める時代に知っておくべきこと。~

自由。じゆう。
自由とは何か。たまに哲学的に問いかけられることはあるが、正解はない。

しかし、僕は「自由そうだ」と言われることはある。
確かに海外でずっと野球をしていればそう見えるかもしれない。実際に、僕はある意味自由だと思う。しかし、その自由の定義は大勢の人とは若干異なる気がする。
そこで、今回は僕が考える「自由」について描きたいと思う。

そもそもの話だが、あなたにとって自由とはどういうことだろうか?
それは、なんでもかんでも選択をすることができるということだろうか?
それとも、与えられた選択肢の中で選択ができるということだろうか?

僕は「自由」という言葉はあまりにも無責任に扱われていると思う。
それは、自由という言葉の定義を明確にする責任を伴っていないということだ。「自由」の定義を曖昧なまま使っているということだ。

そもそも、我々が求めているのは、「なんでもかんでも選択することができる状態」のことではないはずだ。実際、なんでもかんでも選択することができても結局一つにしなければいけないときなんてザラだ。結局「一つ」しか選ぶことができないのである。それでは選択肢が与えられなかったときでも「一つ」しか(強制的に)選択できないから、どちみち同じではないか。自由だろうが、自由でなかろうが、同じじゃないか。

ここで生まれる違和感。

さて、もしかしたらここで選択肢が与えられた状態と与えられていない状態は違うじゃないかと言う人がいるかもしれない。
ここが本質だ。実は、この違和感にこそ「自由」の本質が隠れているのだ。

つまり、我々が求めているのは自由なんかじゃない。それよりもはるかに「納得感」を求めているのである。

「自由」は納得感を強めるための手段なのであり、だからこそ我々はその納得感を強めたくて「自由」を求めてしまうのである。

自由を求めながら、実は我々が本当に求めていたのは自由なんかではなくて、納得感なのだ。

どうすれば納得感は手に入る?

求めていた自由の先にあった「納得感」。しかし、納得感はどうすれば手に入るのだろうか。今思いつくことを3つ挙げたい。

  1. 決断をする。

  2. 受け入れる。

  3. 主体と客体を行き来する。

1の「決断」をするとは、「腹を括る」ということであり、自分はこの道をやり抜くと決心することである。自分の中で覚悟を決めるからこそ気づくことがあり、その中でワクワクすることや無条件に時間を割くことができるものを選んでいく。

2の「受け入れる」とは、自分の身に降りかかったすべての出来事を直視し、受け入れて「だからこそできること」を探すということである。思い通りにいかなかったとしても、それはなぜそういかなかったのか。どのような方向に次は進めるのかを自分で吟味する時間を作る。「受け入れる」ことは予期せぬチャンスを与えてくれる。ありがたい。

3の「主体と客体を行き来する」とは、つまり自分と他者の複数の視点から立体的に物事を分析するということである。その時点だけでなく、その人の過去やルーツなどの複合的な観点から物事を分析する。それぞれを行き来することで自動的に様々なものを「受け入れる」ことができるようにもなる。異文化や異質にどれだけ触れたかがこの能力を高める秘訣。

納得感の行き先。

ここまで、自由を求める理由とその先にある「納得感」を高めるための方法について述べた。もちろんこれが正解だと限らず、現時点で私が思うことを描いたということに過ぎない。
この記事が少しでも多くの方に届き、この時代を生きるためのヒントになればいいな。

これからもよろしくお願いいたします!

ぽてんしゃる inぽーらんど





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