【小説】「渋谷、動乱」第8話
――まさか、こんなことになるとは。
ハチ公前広場の群衆の波にもまれ、身動きが取れなくなっていた奥田秋生は、当初の計画の変更を余儀なくされつつあった。奥田はネットカフェ「トマリギ」の303号室で、掲示板の監視を行っていた最中、急に立ち上がった箭内聡明に関するスレッドに、渋谷の書き込みを見つけた。さらに、YouTubeでの動画配信を見た瞬間、居ても立っても居られなくなり部屋を飛び出した。出動の時間だと思った。街が呼んでいると思った。
息せき切って広場にたどり着き、即、事の次第を理解した。この群衆、そして踏み台に立つ箭内聡明が、あの掲示板の文言が指している出来事に違いないと思った。――だとすれば、自分がすべきことはただ一つ。この群衆を散会させることだった。もしここで、例の文言にある「みな 唱えよ」が文字通り起こってしまえば、必然、「叡智の目が見開かれ」、この街の治安は崩れ去ってしまう。この街の人のためにも、自分のためにも、それだけは避けなければならなかった。しかし、背中のリュックに入れてきた秘密兵器の拡声器が取り出せない。少しでも身動きを取ろうとすると、前後左右の若者たちからにらみつけられたり、舌打ちされたり、罵声を浴びせられたり、自分の使命とは裏腹に、心はこの場から逃げ出したくなりつつあった。
右往左往する奥田をよそに、満を持したように聡明の演説が始まった。奥田は、ああ、もうだめだと絶望し、体の力が抜けたようにその場にへたりこんでしまった。
――おい、おっさん。なに座ってんだよ、邪魔だろうが!
そばにいた、たったひとりの若者による暴言にも関わらず、奥田には、自分に対する群衆全体の怒号のように聞こえた。炎天下。群衆の熱気。若者たちの圧力。失望。そして絶望。すべての不運が奥田の身に襲い掛かっていた。次第に意識が薄れ、間もなく視界の光を失った。奥田が子どもの頃から憧れていたヒーローは、地球のために怪獣と戦うウルトラマンだった。だが、肝心の変身用の拡声器は使えず、カラータイマーも切れ、奥田にはもう成すすべはなかった。
広場のわずかな空間に、ドンッという鈍い音が響いた。奥田の頭部が地面に衝突する音だった。
藤堂はカフェの席から、奥田がその場に膝からくず折れるように倒れ込む様子を目撃し、思わず立ちあがった。
「ごめん。じゃ、また店で」
綾音にそう告げると、藤堂は一目散に店を飛び出していった。綾音はただ、その後ろ姿を目で追い、今日と言う日を忘れないように、心に焼き付けようと思った。
藤堂が建物を出て、ハチ公前広場に渡る横断歩道で赤信号を待っていると、箭内聡明が語り出す声が聞こえてきた。藤堂はその時、聡明の声を初めて聞いたが、男の自分でもうっとりと聞き惚れるような、重低音の見事な美声だった。
「――なんか、始まったね」
野間紅に緊張感がないのはいつものことだったが、この場ですら緊張感がないのは、もはや紅特有の性格と言えた。ただ、冷静なのは錦戸愛斗も同じで、蒼い炎のように静かに高まっていく群衆のボルテージに当てられもせず、目の前で起こっている現象、YouTube内での聡明に対する熱狂ぶり(ほぼ、聡明を礼賛するコメントであふれていた)を、他人事のように見つめていた。事件の目撃者と当事者は同じであることが多いが、愛斗は当事者となることで自分のカメラのレンズが曇ることを非常に嫌った。そこに主観が入りこむことを嫌がった。あくまで客観的に。それこそが、後世に歴史を伝える目撃者の目だと思った。
横断歩道の信号が青に変わった瞬間、藤堂は走り出した。母親の世津子が看護師だったこともあり、藤堂はたびたび、目の前で急変して倒れ込んだ人たちを、母親が臨機応変に処置する姿を見てきていた。右手に握っていたスマートフォンでは、すでに救急車を呼んでいた。単に熱中症の類いであれば、自分でも対処はできると思ったが、脳や心筋系の異常による急病であれば、命にかかわると思った。
広場の方に向かって駆けてくる藤堂の姿を、フリーアナウンサーの不知火香央理が横目で目撃した。藤堂の真剣なまなざしから、瞬時に何かがあったのだと悟った。ディレクターの橘にすぐに教えようと思ったが、たった今、箭内聡明による演説が始まったところだった。カメラマンの木下匠はカメラを回しはじめ、橘は今にも、自分に指示を送ろうとしているように見えた。こう言う時、先輩アナの高原さんならどうするのだろうと、香央理は一瞬考えた。
香央理が言う高原アナ、現在は夜の報道番組でキャスターを務める高原誠は、アメリカの9・11の時に、現場から中継を行ったアナウンサーの1人だった。高原はその時、カメラに向かい、いや視聴者に向かい、「ごめんなさい!」と突然叫び、マイクをカメラマンに預け、ビルのがれきの破片が頭に直撃し、路上に倒れ込んでいた女性の救助に向かったのだった。果たして自分が今、そのような行動をとるべきか。高原のように負傷者をこの目で見ているわけではなく、あくまであの藤堂という男のまなざしから予感しただけの事に、どう対処するべきか。瞬時の判断が求められた。
間もなく香央理は、高原と同じ行動をとることにした。横断歩道を走って渡り、こちらに近づいてきた藤堂に大きな声を掛けた。
「なにかあったんですか!」
藤堂は香央理の声にすぐに気付き、足を止め、香央理の方を振り向いた。声の主がフリーアナウンサーの不知火香央理だと、さすがの藤堂にも分かったが、だからと言って、今はそんなことは関係なかった。人命救助が最優先だった。
「人が、たぶん、中で」
「え?」
「あの群衆の中で、倒れている人がいるんです。助けないと」
「どこですか!」
その後すぐ、藤堂と香央理は、「ごめん、どいて!」などと叫びながら、群衆の塊を強引にかき分けていった。
「――あ、おい。香央理ちゃん。どこ行くんだよ!」
橘の叫び声は、香央理の背中には届かなかった。
藤堂と香央理はやがて、群衆の中で若干の空間が出来ていた場所にたどり着いた。四方の若者たちがその中心を向き、何かを見下ろしていた。
「どいてくれ!」
藤堂の一言で開けたそこには、倒れ込んでぐったりする奥田秋生の姿があった。顔は見るからに青白く、からだからは完全に力が抜け、意識を失っているように見えた。
「救急車!」
香央理が叫ぶ。
「もう呼んでる。誰か冷たいもの持ってないか!」
藤堂が叫んだ。
香央理が藤堂に重ねて、若者たちに呼び掛けた。すると、藤堂たちを囲む輪の最前列にいた柳美嘉が、「あの、これ、保冷剤」と言って、藤堂たちの方に差し出した。「ありがとう」と言って藤堂が受け取ると、美嘉につられるように、ほかの若者たちが次々と持っていた保冷剤や冷たい飲料などを差し出した。藤堂はまず、奥田のからだをあおむけにした後、受け取ったいくつかの保冷剤をハンカチやタオルで包み、奥田の首筋や脇、太ももの付け根など、静脈が通る場所を冷やしていった。また、香央理から差し出されたハンカチに水をかけて湿らせ、奥田の口元を何度も濡らした。そして、ふと、涼しい風を感じたと思いきや、自分たちを取り囲んでいた若者たちが、それぞれうちわやらクリアファイルやらで、奥田のことを扇ぎ始めていた。
「おじさん、死ぬなよ。絶対助かるから。救急車ももうすぐ来る。絶対来る」
藤堂はその時、生まれて初めて「絶対」と言う言葉を二度続けて使った。絶対などないと、母親の世津子に教えられてきたにも関わらず、藤堂は本気でそう思って言った。藤堂と奥田の様子を見ていた香央理は、気付けば瞳にうっすらと涙を浮かべていた。あの時の高原アナの気持ちがよく分かった気がした。
橘も香央理の行動を見て、異変に気が付いた。これまでの経験から、おそらく急病人か何かだと直感した。橘はこの広場にいる者たちの中で一番の年上、――と言っても45歳だったが、今、人命を救うためには自分が声を上げ、箭内聡明の演説を止めさせるしかないと決意した。カメラマンの木下は橘の表情を見て、「はい、わかりました」と素直にカメラを下した。
「――箭内聡明! 悪いが演説は中止だ。この中で誰かが倒れた! もともと予告もなかったんだろ! だからまた、今度にしてくれ!」
演説をしていた聡明の声を上回る声量で橘が叫んだ。こちとら、高校大学と野球部の応援団で鳴らし、枯らした喉だった。
橘の声が耳に入り、聡明は珍しく表情を曇らせた。誰だあいつ、と思った。黒服の梁川が、イヤホンで別組の仲間から連絡を受け、
「――聡明さん。どうやら今日は、良いお日柄ではなかったようです。仕切り直しましょう」
聡明に囁いた。
壇上の聡明は、即座にそうか、という風に頷き、表情を元に戻し、
「皆さん申し訳ない。せっかくこれだけのオーディエンスに集まってもらいましたが、今日はお開きにします。どうやら急病人が出たようです。ここは僕の演説よりも、ひとりの大切な命を優先させてください。集まっていただいた皆さん、次の機会にまたお会いしましょう」
と言い、ゆっくりと踏み台を降りた。
救急車のサイレンが近づいてきた。橘たちが若者たちに向かって「道を開けろ」と叫ぶ。
急に、群衆の空気が変わったことに気付いた紅は、
「あれ、なんか終わった?」
と言って、口をぽかんと開けた。
「あー、がせだったか」
愛斗は変わらず、聡明のことを礼賛し続けるYouTubeの動画を閉じ、スマートフォンをズボンのポケットにしまい込んだ。それを合図にするかのように、群衆の一体感は急速に冷め、分子構造のようにあれだけガチガチに固まっていた若者たちが、ゆるやかに分散し始めた。サイレンを鳴らしながら到着し、路肩に止まった救急車から、隊員たちがストレッチャーを押して、藤堂たちのもとへ駆け寄ってきた。救急隊員の吉田直之は奥田の意識を確認し、反応がないと分かると、即座に奥田を同僚の瀬尾俊彦と息を合わせてストレッチャーに乗せ、救急車に運び込み、速度を上げて病院に向かった。
「ありがとうございます。不知火さん」
救急車を見送り、香央理のハンカチであることを忘れ、自分の額の汗をぬぐっていた藤堂が香央理に声を掛けた。
「いえ、あれ? わたし」
「さすがに、分かりますよ」
「そうですか。いえ、こちらこそ助かりました」
香央理が丁寧に頭を下げる。
「でも、なんで何かあったって分かったんですか?」
藤堂が問いかける。香央理は、遠ざかる救急車のサイレンを目で追いながら、
「ふと見たあなたの表情が、尋常ではなかったので」
それにどことなく、藤堂は高原アナに似ていた。藤堂は目じりに皺を寄せて笑い、
「でも、とにかく良かったです。あとは、あの人の無事を祈るだけですね」
「はい」
「香央理ちゃん、やったね! 良くも悪くも」
2人のもとに、笑顔を浮かべながら橘が近づいてきた。香央理はしまったという顔をし、ごめんなさい、勝手なことをしてと言って、何度も頭を下げた。
「いいよいいよ。結果オーライってやつ」
「ほんと、すみません」
自分の方が恐縮するほど謝る香央理に対し、橘は首を横に振り、
「じゃ、撤収しようか」
と言って、香央理の肩をポンと叩いた。
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