意味を拾い集めている

自分の発するその場で最も適切であろう言葉たちが、後の自分にストレスを課していることが多々ある。私が私として使えている語彙は一体どれほどあるのだろうか。使いたい言葉で話せている時の方が珍しく、私は求められているであろう言葉や印象を最小限に抑えるためのオウム返しに近い返事を繰り返して生活している。

つまらなくなってしまったのは自分。などという言葉を目にしたことがあるけれど、つまらないのは環境でありその環境に適応できない事実が退屈にさせるのだ。
自身が自我を持ち変化していくという普遍の事実を悲観することに何の意味もないと感じる。

意味を放出しては脳から瞬時に捨てて忘却することで、また新たな脳を使う。


自分が生きている意味を問い始めるのは、自分が放出した意味に自身が意義を感じられていないからでもある。何となくそんな気がしている。


「おはよう」を一つ取っても社交辞令だったり、言われたために返したというものだったり。心から共に新たな朝を迎えられた喜びを共有したいといった「おはよう」を聞いたことがあるだろうか。

というのは極端すぎるのか?


創作で意味を作ることを欲するのは、本来の自分が紡ぎたい言葉などの表現を自由に表出できるからなのかもしれない。

読書をするのは意味を拾い集めるためだ。自分で手にとって確かに触れられる意味を、心から共感したり疑問視したりすることが生き甲斐の一つになる。それは大袈裟だろうか。

もっと心の潤う言葉が欲しくてたまらない。
正常に生きているために言葉が必要なのだ。


色々なものに意味を殺されてしまう度に、新たな本が必要なのだ。自らの変化や周囲との関わりで心に生きていた言葉は死んでしまうことがあるから、新たな本が必要なのだ。

何度も何度も違う言葉を吸収しているようで、他人から供給されたい意味は全て数珠のように繋がっているのかもしれない。


拾われなかった意味を嘆かないために、私自ら他人の創出した意味を拾い集める。
これは自分のための善行になり得るだろうか。
所詮ただの趣味であろうか。


悲しみのなくなる意味を何もせず待ち続けるのは日が暮れてしまう。
自分が求めているということを認知されないところで、求めている言葉を拾いたいのだ。
それはもう純粋な他人の感情が心に染み渡る。
一度虜になってしまったらやめられないのだ。読書とはそういうものだ。


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