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#11 認知症ケアにおける私のバイブル

もうだいぶ前に出会った認知症介護のヒントが詰まった本が2冊ある。

理由を探る認知症ケア 裵 鎬洙(ぺ ホス)著


著者のセミナーに参加した際に購入し、職場で勉強会をするときに度々活用させてもらっていた。そののち家族として介護がはじまった時にも読み返してみてとても役に立った。

「認知症の人の行動には何かしらの理由がある」と言われているが、この本は認知症の方の症状ばかりに目を向けず、その人自身を知ること、今できていることをきちんと見極めること、介護者の「価値観の枠組み」を意識することからケアをする側のかかわり方を見直すきっかけをくれる。

具体的な場面を想定したイラストが多数使われており、とてもわかりやすい。介護職の方なら必ず遭遇したことのある場面ばかりで自分のケアを振り返ることができる。もちろん介護をされているご家族が見ても少し気持ちが軽くなると思う。

さらに章の間にあるコラムも参考になるものばかりだ。無意識だったり、思い込みでやってしまっているケアや理由を探してよいケアにつなげたケースの紹介や認知症の方の表出している言動や症状にどのような意味が含まれているのか解説されている。

その中でも一章の後に書かれているコラムはその時の私に刺さった。

わたしたちは「認知」ではなく、「ニンチ」、つまり「取り扱いにくいもの、理解に苦しむもの」という意味合いで使っているのではないでしょうか。

理由を探る認知症ケア  コラム1「認知症」を「ニンチ」と表現する専門職より

最近では「ニンチ」は誰もが言ってしまう単語になった。
一般的に「あー、私ニンチ入ってきてるわ」とか「あんた、それニンチやろ?」など軽い感じでも使われているが、私はこのコラムを読んでからは「ニンチ」は使わないように気をつけている。少々堅苦しいが「認知機能が低下した」や「認知症の症状で」などと正しく表現することにしている。それはとんでもなくひどい症状のある認知症の姑サミーさんに対してもそうだ。

私の中では「ニンチ」、「ニンチ入ってる」は使ってはいけない差別用語として認定されている。自虐的にさらりと使う場合はともかく、少なくとも介護に関わる方はできるだけ使わないでいただきたいと大きな声で伝えたい。

同じように近年「ハッタツ」とか「持ってる」(運がいいという意味ではなく、特性を持っているということ)という言葉も児童福祉領域で日常的に使われているように思う。児童養護施設に関わった際に職員が平気で「あの子は持ってるからね」などと言っている、しかもヒソヒソと何か悪いもののように言っているのを聞いて、とても不愉快になった。

持っているって何なんだ??

施設で生活している子どもたちは様々な過酷な環境に置かれていたのだから当然何かしらケアの必要な症状が見られるのは当たり前だと思う。たしかに診断名があれば治療やケアの役に立つことはわかるが、何でもかんでもそこにはめ込んでケアがうまくいかない理由にしてしまっていないだろうか。子どもたちの無限の可能性に目を向けることをやめてしまってないだろうか。

それは認知症でも同じである。本来適切なケアがなされれば発揮できる能力を不適切なケアで介護する側がつぶしておいて、「ほら、やっぱりニンチだからね」と片づけてしまっている場合もある。自分の専門職としての能力のなさを晒しているようなものなのに、問題の所在をすり替えて簡単に「ニンチ」で片づけてしまうことにモヤモヤしてしまう。

あなたは本当にその人のためにケアしていますか?
時間通りにケアしたいから、あなたが安心したいから、目の前で事故が起こってほしくないから、面倒なことにならないでほしいから、
自分の都合の良いように動いてほしいと圧をかけていませんか?

この本はあくまでも認知症ケアのヒントがちりばめられているだけで、ハウツー本ではない。同じ対応をして奇跡的にうまくいくかもしれないが、そのままではすぐにうまくいかないことが出てくるだろう。とにかくケアの場面ごとに理由を探るという行動をとることが大事なのである。本書で著者が口を酸っぱくして言ってくれているが、認知症を一括りにして扱わない、認知症ケアにパターン化された対処法はない。同じ人に対して昨日はうまくいったケアも今日は何らかの理由でハマらないことはある。いわんや別の人をや。

何度も読み返して自分の専門職としての誇りを確認したい本である。


ユマニチュード入門 本田美和子,イヴ・ジネスト,ロゼット・マレスコティ 著

これも同じころに購入した一冊である。ユマニチュードとはフランス語の造語で「人間らしくある」という意味があるそうだ。人間らしさを、人の尊厳を守るケアと言うことなのだろう。特に認知症高齢者のケアにおいて役立つ技術として紹介されている。

来日した著者のイヴさんが高齢者施設を訪問し、車いすの高齢女性に近づいてアイコンタクトや優しい身体接触で心を緩ませて、立ち上がるという「クララが立った」的な奇跡のシーンをテレビ番組で見てすぐにこの本を読んでみたくなった。帯に書かれた通り、魔法でも奇跡でもなく、技術だということで、ぜひとも身につけておきたいと思った。細かいテクニックを学べるセミナーなどに参加することは時間や費用の都合でかなわなかったが、この入門書を読みこんで現場で実践してみた。特に発語のない方、少ない方へのかかわり方について気をつけるようになり、実際に認知症で寝たきりの背の高い男性がすんなりと立ち上がることができてびっくりしたことを覚えている。

ユマニチュードはケアをされる側、ケアをする側どちらの負担も軽くするための技術である。本の中には具体的な対応方法が優しいイラスト共に描かれているが、決して方法論でとらえるのではなく、なぜこのかかわり方が重要で、どのように良い効果を引き出すのかを理解する必要がある。それがわかれば自らのケアの仕方が変わり、たとえ言語でのコミュニケーションが難しい方とでも通じ合えたと思える瞬間がやってくる。

ユマニチュードでは「人と人との関係性」に着目し、感覚をとても大事にしており、「見る」「話す」「触れる」「立つ」という4つの柱がある。

「見る」「話す」「触れる」「立つ」

デイサービスなどのフロアに利用者さんが座っている場面を想像してみてほしい。入浴へ誘導しようと、ある利用者さんに後ろから近付きながら声をかけて、横に行った瞬間に、脇に腕を入れて、突然声をかけてもちあげるように立たせる場面をケアの現場で見かけないだろうか。(こんなにひどいことは今どきないか?でも時間や気持ちの余裕のないケアの場面はあるように思う)
その空間にはコミュニケーションは存在していない。当然うまく立てないだろうし、何なら文句を言われることもあるだろう。このケアの場面ではユマニチュードで言われている4つの柱は完全に無視されている。

本書ではまずは「見ること」、きちんと正面から同じ高さで視線をつかみに行くことで信頼や優しさを伝えることができるといっている。こちらが相手の目を見るということではなく、視線をつかむといっている。また、「話す」と言うことは、たとえ言語的なコミュニケーションが取れずに、話しかけても返答(フィードバック)がない方をケアする場合でも、こちらがこれから何をするかというケアの予告と今どんな風になっているのかケアの実況中継をし続けること(オートフィードバック)で、その空間にはコミュニケーションが成立しているといっている。そして、「触れる」では突然上から手をつかまれたりすれば恐怖を感じて拒否をすることがあるかもしれないが、広い面積で腕全体をゆっくり優しく支えるようにすることで「安心してください」というポジティブなメッセージを皮膚から脳へ伝えることができるといっている。介助する側は極力指先に力を入れずに一定の重みをかけて触れることが重要になる。最後に「立つ」ということ。立つことは歩く直前の動作でもあるが、立つことで本人の心身への良い影響もあるし、介護者のケアの方法も変わってくる。ひいては寝たきりになることも防げるし、もしかしたら歩くことへの意欲が呼び覚まされるかもしれない。

後半の章では以下のようなもう少し細かいテクニックが紹介されている

・3分以内に合意を得られなければケアをすることを一旦あきらめる
・正面から近づく
・目線があったら2秒以内に話しかける
・いきなりケアの話はしない
・常に「見る」「話す」「触れる」の2つを行う
・ポジティブな感情記憶を残す
                       など

ユマニチュード入門 Section3 心をつかむ5つのステップより 


こういうのを勉強会で紹介すると、そんな丁寧にやっている時間がないのよなどと言い訳をする介護職が必ず出てくるが、急ぐ時ほど丁寧にやる方がスムーズにケアができることは多い。はじめの「視線をつかみに行って」挨拶をするところでコケてしまうことで信用されず、ケアが進まないことになるのだ。ほんの数秒待つ、ほんの一歩横に動いて、少し目線を下げていつもとちょっと違うケアをすることで通じ合えたと感じることができるということにいつか気づいてほしい。

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