【詩】朝の渚
秋の朝 渚を歩く
私たちに最も近い恒星から
今朝もこの惑星の半球にあまねく光が届く
海がきらめく
波打ちぎわをたどりながら
学校唱歌のように昔を偲ぶ
でも 壮年や青年の日々ではない
巻き貝の殻を拾いあげると
そうした洞窟に迷い込んだような日々を
一息にくぐり抜け
螺旋の奥に 渦の深くへ
確かにあったあの輝かしい王国へ
* *
少年の目に映った
夏休みの朝まだきの樹液を啜るカブトムシ
まだ胸のふくらんでいない
少女のかぶる麦藁帽子
停電の夜の蝋燭の炎のゆらぎ
町はずれの映画館で見た
渺々たる砂漠を駱駝に乗りわたる隊商
水晶玉に目をこらす老婆
嵐と灼熱の太陽と
風のひとそよぎもない凪の待つ
大海に船出する水夫たち
未来も過去もなくただ現在だけがあった
現在のなかで実在と空想が
分かちがたく溶け合っていた
酒によらない酩酊
多くは光のなかで
しかしときには闇のなかで
恍惚と一つとなった覚醒
* *
そして今 秋の朝の渚を歩く
昨日子供たちにより築かれた砂の城が
ぼやけた輪郭だけをほんのわずかに残し
今朝崩れているのも
朝食のとき
珈琲に垂らしたミルクが
カップに拡散するのも
食卓に置いた一皿のスープが
冷めてゆくのも
歳月とともになしくずしに
体形が崩れてきたのも
同じこと
世界に生起する現象は全て不可逆であること
もとに戻らないこと
熱力学の物理
Randomに浮遊する無数の分子が
一つの形を作る確率に比べ
その限りなくゼロに近い微小な確率に比べ
無定形に散乱する確率が
とほうもなく大きいこと
それだけのこと
宇宙の全空間と全時間を
Simple極まる熱力学の物理が貫いている
それだけのこと
この青い惑星の生滅もその上の生物の進化も
人生における官能の一夜と同じ程度に短い
刹那の出来事にすぎない
* *
それでも 秋の一日が始まる
この澄みきった朝の渚で歩みを止め
輝く海の縁
寄せる波に素足をさらしたたずむ
ささめくような波の声を聞き
くすぐるような波の愛撫を足の裏に感じる
空と海の明度の異なる青が
かくも鮮やかであるのも
光の波の物理
恒星から届く光の波よ
惑星を被うわだつみの波よ
寄せる波のなかに生じた
宇宙の極小の泡よ
かけがえのない偶然の泡よ
存在の海の一しずくよ
これ以上何を望むというのか
(註)「熱力学の物理」とは「熱力学の第二法則」いわゆる「エントロピー増大の法則」のことです。古来説かれてきた諸行無常や万物流転についての物理学上の見事な表現であると作者は考えています。
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