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【短編小説】エコ・クライ・ウルフ【イソップ寓話:羊飼いの悪戯】


イソップ寓話「羊飼の悪戯」羊飼いは村人を騙して、狼が来たと嘘をつき、村人を何度も呼び出して楽しんでいました。しかし、本当に狼が現れた時、村人たちは信じずに助けに来ませんでした。その結果、羊飼いは全ての羊を失ってしまいました。

エコ・クライ・ウルフ ―信じられない欺瞞の警鐘―

薄暮はくぼ研究室けんきゅうしつで、緑川みどりかわ大樹だいきはスマートフォンの画面を凝視ぎょうししていた。環境科学かんきょうかがく専攻の3年生である彼の目に映るのは、次々と更新される環境関連かんきょうかんれんのニュースフィード。その一つ一つが、彼の心に重くのしかかる。

「まただ...」

大樹だいきは思わずつぶやいた。画面には、ほそったホッキョクグマの姿が映し出されている。氷の上で必死にバランスを取ろうとする姿に、大樹だいきの目から涙がこぼれた。「このままじゃ、彼らは…」大樹だいきの胸に、怒りと悲しみが入り混じった感情が渦巻うずまいた。涙を拭いながら、大樹だいき故郷こきょうの自然に思いをせる。自宅の裏庭うらにわ通学路つうがくろ並木道なみきみち干上ひあがりかけた池の跡。何の変哲もない山。特別自然豊かな場所というわけでもなかった。ごく普通の地方都市ちほうとし。しかし、都会の大学に出てきて、その何気ない日常が、どこか貴重きちょうに思えてくる。

スマートフォンが再び明滅めいめつし、新たな通知が表示された。
「エコ・ウルフ」からのメッセージだった。
大樹だいきが所属する環境活動かんきょうかつどうサークルの名前だ。

大樹だいきくん、明日の海岸清掃かいがんせいそう、忘れないでね!」

メッセージの送り主は、サークルの先輩である赤木燈あかぎあかりだった。
特に理由もなく環境科学科かんきょうかがくかに入った大樹だいきにとって、彼女の存在は刺激的しげきてきだった。
常にたのもしく、環境活動かんきょうかつどう情熱じょうねつを注ぐ姿。
そこに自分の目指すべき道を見出みいだしていた。

「はい、必ず行きます!」返信を送りながら、大樹だいきの胸に小さな高揚感こうようかんが広がった。
明日こそ、自分も何かを変えられるかもしれない。
そんな期待を胸に、大樹だいきは帰路についた。
彼の背中には、まだ見ぬ明日への期待で満ち溢れていた。


翌朝、大樹だいきは早々に海岸へと向かった。
「エコ・ウルフ 海の日スペシャル・クリーンアップ作戦」と銘打たれたイベントは、あかりの指揮のもと、300人規模で行われる予定だった。
到着した大樹だいきの目に飛び込んできたのは、予想よりもずっと少ない人数だった。
ざっと見て100人程度。
しかし、それでも皆が熱心にゴミを拾う姿に、大樹だいきは胸を熱くした。

大樹だいきくん、来てくれてありがとう!」

あかりの声に振り返ると、彼女の笑顔がまぶしく感じられた。
大樹だいきは砂浜に散らばるプラスチックゴミを拾いながら、その一つ一つが海の生き物たちの命をおびやかしているのだと思うと、胸が痛んだ。
清掃活動が進む中、大樹だいきは地元の人々と言葉を交わした。

「最近は魚の種類が減ってね。」
「ビーチの砂がどんどん減ってるんですよ。」

それぞれの言葉が、大樹だいきの中で環境保護の重要性を再確認させていった。

活動が終わり、充実感じゅうじつかんに包まれながら、大樹だいきはSNSに投稿しようとしていた。

「今日は100人近くの方々と一緒に…」

その時、あかりが横から声をかけた。

大樹だいきくん、300人って書いてよ」

「え?でも実際は…」

「大丈夫よ。これ見て」

あかりが見せた写真は、たくみな角度で撮影され、実際よりもずっと多くの人が参加しているように見えた。

「でも…」

躊躇ちゅうちょする大樹だいきに、あかりは優しく語りかけた。

「こんなほんのちょっとの事で、多くの人が環境問題に目を向けてくれるのよ。何よりも知ってもらうことが大切なの」

大樹だいきは迷いながらも、あかりの言葉に従った。

「今日は300人の方々と…」

投稿後、予想以上の反応が返ってきた。

「すごい!こんなに多くの人が参加してるのか!」
「私も次は参加したい!」

イベントに興味を持ってくれるコメントの数々に、大樹だいきの心は高揚感こうようかんで満たされていった。

「これが…環境活動の力なんだ」

大樹だいきの心の中で生まれるはずの小さな違和感は、環境活動への賛同という喜びに押し込められていった。

その夜、ベッドに横たわりながら、大樹だいきは今日の出来事を振り返っていた。

「小さな嘘をついたかもしれない。でも、それは環境のため。多くの人々の目を環境問題に向けさせるためだ」

そう自分に言い聞かせながら、彼は眠りについた。


数週間後、大樹だいきのスマートフォンが鳴った。
あかりからのメッセージだ。

大樹だいきくん、ちょっとたのみたいことがあるの。近くの川の汚染状況おせんじょうきょうをSNSに投稿してくれない?」

大樹だいきは即座に返信した。

「わかりました。すぐに調査ちょうさに向かいます」

翌日、大樹だいきは川辺に立っていた。
水面はおだやかで、一見いっけんするときれいに見える。
しかし、あかりの言葉が頭をぎる。

「表面上のうつくしさにだまされてはダメよ」

周辺しゅうへん住民じゅうみんに話を聞いてみることにした。

「先週、ここで泳いだ後、少し体調をくずしたんだ」
「最近、魚の数が減ってるような気がするわ」

しかし、多くの人々は特に問題を感じていないようだった。

「毎日散歩してるけど、特に変わったことはないね」
「子供たちはよく遊んでるし、特に心配はしてないよ」

大樹だいき葛藤かっとうしていた。
確かに、一部の人々は不安を感じている。
でも、多くの人は平然としている。この無自覚むじかくな人々の目を覚まさなければ…そう思うと、正義感せいぎかんが胸の内で燃え上がった。

水質調査ちょうさの結果は、予想外よそうがいにも良好だった。
基準値をわずかにえる程度で、深刻しんこく汚染おせんとは言えない状況だ。
「これじゃあ誰も関心かんしんを持ってくれない…」
大樹だいきは悩んだ末、データの表示方法を少し変えてみることにした。基準値との比較ではなく、過去最良の状態との比較。
グラフも立体化りったいかして遠近法えんきんほうで分かりにくくした。
これで実際よりも汚染おせんが進んでいるように見せることができる。「これなら、みんなも危機感ききかんを持ってくれるはず…」

投稿を終えた大樹だいきに、すぐにあかりから連絡が来た。

「すごいわ、大樹だいきくん!これならみんな関心かんしんをもってくれる!」

大樹だいきは少し戸惑とまどいながら、データの見せ方を工夫したことを正直に伝えた。

「そんなこと、気にすることないわ。大切なのは、みんなの目を覚まさせること。あなたは正しいことをしたのよ」

あかりの言葉に、大樹だいき安堵あんどと自信を感じた。

投稿への反応は賛否両論さんぴりょうろんだった。

「こんなに汚染おせんが進んでいたなんて…もっと環境問題を考えなきゃ」
「データの見方次第だろ?よく見たらそんなに悪くないじゃん」

しかし、大樹だいきの目に入るのは肯定的な反応ばかり。
批判的ひはんてきなコメントは、本質ほんしつを理解していない人々のものだと思えた。

「これでいいんだ。少しずつでも、みんなの意識を変えていけてる…」

そう自分に言い聞かせながら、大樹だいきは次の行動を考え始めていた。

地球を守れるのは自分たちしかいない。
彼の心の中で、使命感しめいかん高揚感こうようかんふくらんでいった。


初夏の夕暮ゆうぐれ、大学の講堂こうどう熱気ねっきに包まれていた。
「エコ・ウルフ」主催の環境問題啓発かんきょうもんだいけいはつイベントが開かれ、あかり壇上だんじょう熱弁ねつべんを振るっていた。

「私たちの地球は、今まさに危機ききひんしています!このままでは、私たちの子供たち、孫たちの未来はありません!我々に残された時間はわずかです。行動こうどうを起こすのは今しかありません!」

最前列に座る大樹だいきは、あかりの言葉一つ一つにうなずきながら、なみだぐんでいた。
彼女の情熱的じょうねつてき演説えんぜつは、大樹だいきの心に強く響いた。あかり演説えんぜつが終わると、会場からはまばらまばらな拍手。
しかし、大樹だいきは立ち上がり、全身全霊で拍手を送った。

その夜、興奮冷めやらぬ大樹だいきは自室であかりの言葉を反芻はんすうしていた。

「もっと強く、もっと多くの人に伝えないと…」

SNSを開き、新たな投稿を始めた。最初はひかえめだった大樹だいきの投稿は、日を追うごとに少しずつ過激さを増した表現になっていった。

「10年以内に東京が水没の危機に!」
「アマゾンの森林、2年で完全消滅の恐れ!」

既にデータすら無く、いかに関心かんしんを持たせるかだけの嘘や誇張こちょうが数多く混ぜられるようになっていった。

彼の主張には熱狂的ねっきょうてきな支持者のコメントが踊る。

「目を覚ませ!このままじゃ地球が滅びる!」
「政府は何もしない!私たちが行動こうどうを起こすべきだ!」

批判的ひはんてきなコメントも増えていたが、大樹だいきにはもはや見えていなかった。彼のタイムラインには、過激な環境活動家かんきょうかつどうかたちの投稿だけが並んでいた。

数週間後、大樹だいきはテレビで自分たちの活動が批判ひはんされているのを目にした。
「過激な環境活動家かんきょうかつどうかたちの主張は科学的根拠かがくてきこんきょに乏しく、社会に不要な混乱こんらんをもたらしている」と|コメンテーターが語っている。
動揺した大樹だいきは、あかりに連絡を取ろうとした。
しかし、彼女からの返信はなかった。

「なんで…僕たちは正しいことをしているはずなのに」

大樹だいきの心に不安が芽生え始めた。
しかし、その不安を打ち消すように、彼はさらにはげしい言葉でSNSに投稿し続けた。

「人類滅亡まであと5年!今すぐ全ての工場を停止せよ!」
環境破壊かんきょうはかい企業への武力行使ぶりょくこうしも辞さない!」

反応は以前ほど得られなくなっていた。
フォロワー数も減少し始めている。それでも大樹だいきは、自分の主張が正しいと信じ続けていた。

「みんな目を背けているだけだ。僕が、僕たちが世界を救うんだ」

そう自分に言い聞かせながら、大樹だいきはさらに先鋭化していく自身の姿に気づかなかった。
あざやかで複雑な色合いだった世界は、彼の目には白か黒かにしか映っていなかった。


数日後、大樹だいきのスマートフォンが鳴った。
父親からだ。

「もしもし、大樹だいきか?」

父の声に、いつもにない緊張が混じっている。

「どうしたの、父さん?」

「お前、環境科学科かんきょうかがくかだろう。家の近くの山が崩れるかもしれないってうわさがあってな」

大樹だいきの胸に、かつて感じたことのない重みが沈んだ。

「わかった。すぐに調しらべてみる」

電話を切ると、大樹だいきは深呼吸をした。
いつもなら真っ先に開くSNSの画面を無視し、学術がくじゅつデータベースにアクセスする。
地質調査所ちしつちょうさじょのデータを丹念たんねんに読み込む。
普段ならばしてしまう複雑ふくざつなグラフも、今日は真剣に見つめる。
気象庁きしょうちょうのサイトで降水量こうすいりょうデータを確認。
過去のデータと真摯しんしに向き合う。
計算式を思い出し、何度も確認しながら電卓をたたく。結果が出るたびに、消して計算し直す。

正確せいかくに計算しないと…」

ハザードマップと|航空写真こうくうしゃしんを細かくチェックする姿は、まるで別人のようだ。
環境省かんきょうしょうのシステムにアクセスしても、普段のように都合つごうの良い情報だけをき出すこともしない。
額に汗をかべながら、すべての情報を丁寧ていねいに読み解いていく。
調しらべるほどに、胸の奥で警告音けいこくおんが鳴り響く。
スマートフォンに手が伸びる。
だが、いつもと違って躊躇ためらいがある。

投稿画面を開き、指が震える。
大樹だいきは深く息を吸い、慎重に言葉を選び始めた。

「今回だけは…正確せいかくに伝えなきゃ」

大樹だいきは深く息を吸い、慎重に言葉を選び始めた。
しかし、文字を打ち込むにつれ、見慣れた画面にとらわれていく。

「このままじゃ、誰も真剣に受け止めてくれないんじゃ…」

不安が頭をぎる。父や地元の人々の顔がかぶ。

「もっと強くうったえないと…」

知らず知らずのうちに、いつもの誇張こちょうした表現がまぎれ込んでいく。

「緊急警報!◯◯市にある山が今にも崩れる!数時間以内に大規模だいきぼ土砂災害どしゃさいがいの可能性大!全住民即時そくじ避難を!」

送信ボタンに触れた瞬間、大樹だいきの中で何かが引っかかる。
しかし、習慣化しゅうかんかされた新たな「普通」が、その違和感を消し去ってしまった。反応はこれまでと変わらなかった。

「またお前か。全然信用ならねー」
「公式の発表もないし、嘘乙」
「正直、こいつ通報つうほうしたほうがよくない?」

批判的ひはんてきなコメントが大半を占めていた。
大樹だいきは焦った。

「みんな、これは本当なんだ!信じてくれ!」

しかし、誰も彼の言葉に耳を貸さなかった。


数日後、大樹だいき故郷こきょうへ向かう電車の窓に額を押し付けていた。

数時間前、彼が警告していた土砂災害どしゃさいがいが現実となった。両親との連絡は途絶えたまま。
車窓しゃそうの景色が、まるで古い映画フィルムのようにゆっくりと流れていく。

「あれだけちゃんと調べたのに、なんでみんな信じてくれなかったんだ!」

大樹だいきの頭の中で、SNSの罵倒ばとうコメントが木霊こだまする。
怒りと不安が渦を巻く。

駅にり立った瞬間、異様いような空気に包まれる。
いつもの喧騒けんそうが消え、重苦おもくるしい静寂せいじゃくだけが町を覆っていた。
坂道さかみちけ上がると、そこには想像そうぞうを絶する光景が広がっていた。
裏山の一角がえぐり取られ、茶色い傷跡きずあとをさらす。
土砂の海に沈む家々。瓦礫がれきの中からのぞ日用品にちようひんが、かつての日常を物語る。

「嘘だ…こんなはずじゃ…」

声にならない叫びが喉に詰まる。
大樹だいきの目の前で、故郷こきょうが土色に塗り替えられていた。
実家じっかがある方向から、人影が近づいてきた。

「よかった…無事だったんだ」

父と母の姿に安堵あんどの吐息が漏れる。

「あぁ…なんとかな。うちは大丈夫だ」

大樹だいきはその言葉に安堵あんどしつつも、父の目に宿る影に気づいた。
そこには悲しみと失望が浮かんでいた。

「お前のSNSを見たよ…町長が避難勧告ひなんかんこく躊躇ちゅうちょしたらしい。デマアカウントは信用できんと」

その一言が、大樹だいきの心を砕いた。
自らの行動が招いた結果。皮肉ひにくな現実が、重しとなって沈む。

「で、でも…僕は…みんなを守りたくて…」
涙と共に、言葉が零れ落ちる。
初めて、自身の言動の重みを感じた瞬間だった。

それ以来、SNSのアイコンが呪いのように見えた。
過去の投稿は、無知むちの記録。
自戒じかいの念を込めて保存した。
「正しく、正確せいかくに…」誓いは立てた。
しかし心の奥で、まだ何かがくすぶる。
世界を変えたいという、消えない炎。

その日以降、大樹だいきはSNSを開くことができなくなった。
かつての無知むちの投稿を見返すたびに、自分の過ちを思い知らされる。
「正しく、正確せいかくな情報発信をしなければ…」
それがいかに大事なことか身を持って学んだ大樹だいきは、自らの心と両親に誓った。
しかし、彼の心の奥底では、まだ何かがくすぶり続けていた。
それは、世界を変えたいという消えない炎だった。


故郷こきょうでの出来事から数週間が過ぎた。
大樹だいき環境科学かんきょうかがくの勉強に没頭ぼっとうし、SNSでの活動は控えめになっていた。
しかし、彼の心の奥底でくすぶる環境への想いは、日に日に熱を帯びているようだった。

ある夜遅く、大樹だいきのスマートフォンが鳴った。

「久しぶり。実は大変なことが分かったの。近いうちに会えない?」

大樹だいきのSNSでの影響力が落ちてから、全く連絡がつかなくなっていたあかりからのメッセージだった。
心が警鐘けいしょうを鳴らす。
彼女と会えば、また同じことを繰り返すのではないか。
しかし、大樹だいきの心の中のもう一つのくすぶりが背中を押した。

翌日、大学の裏庭うらにわあかりと会った大樹だいきは、彼女の興奮した様子と大量の資料に目を奪われた。
あかりが差し出したのは、一連のメールのスクリーンショットだった。

「見て。政府と大企業が結託けったくして、環境破壊を隠蔽いんぺいしているのよ」

大樹だいきの胸に再び正義せいぎの火が灯ろうとしていた。

「こ、これ本当なんですか。でも…もし偽情報だったら…」

あかり大樹だいきの両手を取り、真剣しんけん眼差まなざしで語り始めた。

大樹だいきくん、聞いて。私たちが守ろうとしている地球は、今まさに瀕死ひんしの状態なの」

彼女の声は震え、目にはうっすら涙が光っていた。

「ホッキョクグマの話知ってる?彼らは今も、悲しい目でけゆく氷の上でもがき苦しんでいるのよ。そして、彼らだけじゃない」

あかりは一旦深呼吸をし、さらに続けた。

熱帯雨林ねったいうりんでは毎分、サッカー場60個分もの森が失われているの。そこに住む無数の生き物たち、何万年もかけてきずき上げられた生態系せいたいけいが、一瞬で消え去っているのよ」

大樹だいきの目にも涙が浮かび始めた。

「そして、忘れないで。これは遠い世界の話じゃない。私たちの故郷こきょうも、あなたの大切な人たちも、みんなこの危機に直面しているの。海面上昇かいめんじょうしょう異常気象いじょうきしょう食糧危機しょくりょうきき…これらは全て、私たちの目の前で起きていることなのよ」

あかりの声が熱を帯びる。

「でも、大樹だいきくん。希望はまだある。私たちにはまだ、この世界を変える力がある。あなたの勇気、あなたの行動が、この地球を救うかもしれないの。一人一人の小さな一歩が、大きな変化を生み出すのよ」

大樹だいきの頬を涙が伝い落ちる。

「私たちには責任がある。未来の子供たち、まだ見ぬ世代のために、この美しい地球を守る責任が。彼らに、『私たちは全力を尽くした』と胸を張って言えるように」

あかりの目から大粒の涙がこぼれ落ちた。

大樹だいきくん、お願い。一緒に戦いましょう。
この地球のために、全ての生命のために。
私たちにしかできないことがあるの」大樹だいきは声を詰まらせながら答えた。

「わかりました…僕たちで地球を守りましょう!」

彼は震える手でスマートフォンを取り出した。
あかりから受け取った情報を基に、長文の投稿を始める。

「緊急事態!拡散希望かくさんきぼう!これが政府と大企業による環境破壊の証拠だ!」

送信ボタンに触れた瞬間、大樹だいきは白線が引かれたマウンドの上に立っていた。
遠くから聞こえる大勢の人々の声援が大樹だいきの耳に届く。
彼の投稿に期待する多くの聴衆が360度観客席かんきゃくせきを埋め尽くしていた。
そして、手の中で脈動みゃくどうする球体きゅうたい。それは地球のように青く、希望のようにまぶしかった。

観客席かんきゃくせきからの声が、一つ一つ明瞭めいりょうに聞こえてくる。

「お前がヒーローだ!」
大樹だいきくん、地球を守って!」

大樹だいきは深く息を吸い込んだ。
空気が肺に流れ込む感覚が、これまでにないほど鮮明だった。
世界の全てを自分の中に取り込み、大樹だいきの体をけ巡る。
ゆっくりと両腕を上げてりかぶる。
その動作には微塵みじんの迷いもない。
彼の全存在が凝縮ぎょうしゅくされていた。
左足が上がる。
重心じゅうしんの後ろにめ込んだ力の全てを球に込める。
左足を大きく前へ出し、右手がしなる。
そして、球は大樹だいきの手を離れ、渾身こんしんのストレートが通信の風を切り猛スピードもうスピードで飛んでいく。

「この球が、みんなの心に届くんだ」

歓喜が全身をけ巡る。
大樹だいきの口元には、幼い頃のような無邪気な笑みが浮かんでいた。
だが、その絶頂は長くは続かなかった。飛翔ひしょうする球が、徐々にその輝きを失っていく。
それは、大樹だいきの甘い理想という殻が、現実と摩擦まさつを起こし、がれ落ちていくようだった。

鋭い金属音きんぞくおんが、幻想げんそうを引き裂いた。

カキーーン!

観客席かんきゃくせき静寂せいじゃくに包まれる。
歓声も、応援も、全てが虚無きょむに飲み込まれた。
悲しみとも失望ともとれる表情でスタンドから去るあかりの姿が見えた。
そして、彼の目は、天空へとね返されていく輝きを失った絶望ぜつぼうの点を追っていった。

部屋の中で、大樹だいきの手からスマートフォンがゆっくりと滑り落ちる。
画面に映る自分の投稿が、他人事のように感じられた。
床に落ちたスマートフォンの画面に入ったヒビは、大樹だいきの心を表しているかのようだった。
彼は一体何を学んでいたのか。
彼が本当の意味で変われる日は、果たして来るのだろうか。
それとも、甘い幻想げんそうと現実の狭間で、永遠にもがき続けるのだろうか。


【あとがき】
イソップ寓話「羊飼いの悪戯」というお話の現代版です。一般的には「オオカミ少年」という名前で有名な話ですね。
現代でこの手の話といえば…ということで割とすぐに骨子が決まりましたが、色々怖いのであまり言及しません。あくまでもフィクションですから!(笑)
※環境に関する話の一部はかなり誇張した表現をしております。あしからず。

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