入試が招いた語彙力のインフレ 【有料級】
私が捉える入試とは
入試というものはいわば、ろ紙のようなものであると感じている。
大小さまざまな粒子である私たちは必然的に微細な存在となることを迫られる。
つまり、表面上は自由を謳歌させているように振る舞っていようが行きつく先は大きく変わらないと気づかされるのである。
現在の入試情勢では、文理選択を問わず基本的には共通テストで国語の受験が求められている。
難易度もかなり難しいものであり、高い語彙力が求められる。
あなたはこの状況をどのように捉えるであろうか、、、
私はこの入試制度をインフレ化したものとして捉えている
高い語彙力は誤解を生む
私たちは日本人として日本語に親しんでいるわけであるが、聞いたことのない言葉が多く存在していることは経験的にも実感できるであろう。
日本語には熟語が数多く存在しているわけであるが、その多くは漢字の一つ一つに意味が込められていてそれぞれが補填しあうようにして存在している。
日本語の語彙というのは柔軟であり数量が肥大化しやすいという特徴を持っているのである。
例えば
ミス>間違え>錯誤>誤謬といった具合にとっさに出てくる語彙は順序がある
ごめんなさい、、、それは私の誤謬です( ´∀` )
なんていう人はめっちゃ珍しいでしょう、、、、
【それは私のミスです_(._.)_】っていったほうが相手にも伝わるとは思いませんか?
これは言語的な特性であり、使用頻度の低い単語は自然に淘汰されていく。これは生物学的な自然選択論と同様であり、使わない単語は伝播(遺伝)しないのである
自然な淘汰というものは、その対象の本質を反映したものと言えるであろう。
発音・書き順・他単語との関連性などが無意識のうちに考慮されて、上記の例でいったらミスという単語が最も使われたのである。
誤謬という単語が好まれない理由としては、書き順が多いことと、謬という字の汎用性が低いことが挙げられるだろう。
私はこの自然淘汰は言語進化を反映したものであり健全なものとして捉えている。
しかし!! そんな中この状況を改変しようとしている存在があった。
それは言うまでもなく入試制度である。
冒頭でも述べた通り、今回のトピックは語彙のインフレである。
言語的優位性と馴染まない入試制度
高校三年生の大学入学共通テストを3か月後に控えた現在、入試批判をしているのには理由がある。
私は以前のnoteに数多く記しているように、学習に意義を持たせることに
固執している。
要するに学習の目的を見失った以上、受験勉強に身が入らないのである。
この入試批判という考察を通して、逆説的に学習に対する意義を確立し、
学習意欲をより深いものとしていこうという自己内省的な面も含んでいる。
それでは本題に戻りたいと思う
言語的優位性に馴染まない入試制度とは何なのであろうか!!
それはすなわち、誤答を誘導する入試制度であろう。
大学入学共通テストは独立行政法人大学入試センターによって作成されているわけであるが、何かと大学受験者数が増えている中で、正確に受験審査の結果を反映するためには、偶然性の排除が必要である。
ここでいう偶然性とは、完全なる勘である。私も受験生であるため分かるが、模試の試験終了間際に時間が足りず焦ることがよくある。その際は勘でマークを塗りつぶす他ないであろう。(意味はないと承知の上)
この出来るだけ高得点を取るという受験者の心意気は、入試の結果をある程度攪乱する。
第一に入試センターの目的としては、試験結果が総受験者の学力分布として正確に反映されることである。
ここで抑えておくポイントとしては、あくまでも相対評価という点である。
この試験的な特性を踏まえると、入試制作側と受験者側(私)の利害が行き違っていることが読み取れるであろう。
つまり、学校内で実施される定期考査などとは特性が馴染まないのである。
多少回りくどくはあるが、上記の内容を深めるために比較的難化したといわれている2021年度の共通テストを例にとって説明を試みようと思う。
2021年には、共通テストの平均点が比較的低く、難化したと言われているが、理系の受験得点分布を踏まえると面白いことが読み取れた。
下の分布曲線において2021年度はより平均点付近に分布が集中しているため、言い換えれば差がつかなかった試験ということが分かるであろうか。(標準偏差が小さい)
2021年度の入試は、受験生泣かせの酷な試験であり試験製作者に対して一部ヘイトを抱いている人も少なからず存在しそうであるが、実際には製作者側のメンツも傷つけられていたのではないかと推測される。
私立大学を含めると総大学数は年々右肩上がりしているため、志望大学いう条件さえ切り捨てれば、全員が大学に入学することも理論的には可能と考えられている時代である。
肥大化する母数に対して、今後も入試制作者の意向と受験生の意向の乖離が進行していくことは想像に難くないのではないのではないか?
乖離的な入試制度が浸透する中、どうあるべきか
ここでいう乖離的とは、すなわち実生活からかけ離れているいうことである。
国語に関して述べるならば、入試センターは分布の散らばりを生むために、読みづらい評論の文章などを採用することが多い。その一方、そのような文章は実生活において登場することが少ないため、机上の空論感が否めないのである。
私たちは、この身近ともいえる問題に対して、情報の取捨選択という行為を通じて接さなくてはならない。
情報の取捨選択
情報の取捨選択とは、私も非常に難しいと感じている能力の一つである。
AとBは私は必要のない,その一方でCとDは私に必要である。(条件1)
AはCとDが存在するために必要で、BはCとDとは直接関係はないが、Aが存在するのには必要である。(条件2)
条件1と2を踏まえるとABCDいずれも必要であったということになる。
この例からも、分かるように表面上の不必要と実際の必要は、必ずしも表立って現れないのである。
私もそのような経験はよくしており、このnoteを書くことも実際に役に立っているかと問われたら分からない。
しかし、文章作成能力やアウトプットの場であったりを提供する機会にはなっているので、私にとってnoteは必要なのである。
話が少しそれたが、ここで留意しておくべき点としては”自己判断””ということだ!
確かに、入試の文章はとても難しく、高度な文法や語彙力であったりを要求するものが多いが、吸収できる知見も多い。
つまり、選択を迫られているというわけである。もしも、あなたが新たな知見をより多く得たいのならば、語彙力は高めておくべきである。
そうすることで、難解な文章を書く著者の意見も吸収することは出来る。
情報とは一方通行性を持つものである。
特に英語を学んでいて思う事であるが、私たちはListeningのために語彙を増強しているのである。
Speakingは自身が発話をするため、単語の選択権は自身にある。
Writingにおいては、むしろ高度な文法や単語の使用を控えるように教育するのが、高校でもある意味主流である。
一方、Listeningはどうだろうか、、、
ネイティブスピーカ―を前にして、発する単語のレベルが英検1級程度の可能性も十分に考えられる。つまり、我々は外国語を学ぶ際には、発話者ベースの単語学習を進める必要があるのである。
この内容を簡潔に述べるならば
私たちのニーズにあった言語学習の選択をする必要があるということである。このことは国語に応用することも出来る。
医師など、迅速かつ正確な判断が必要とされるため、その分野の語彙を高めていくべきである。コミュニケーションの過程において使用される語彙力のニュアンスの一つ一つにスキーマを仕込ませることは余計な情報を介在させないため、伝達の効率化を図るであろう。その一方で、小学校の教師などは比較的に難解な語彙表現は控えるべきであると思う。
大勢の生徒を引き入れている中で、危険を避けるように注意をするのも教師の役目の一つである。
大勢に確実に情報を伝える事がここでの意義であるため、難解な語彙の使用は好まれないのである。
この例からも分かるように、私たちの語彙へのニーズは多様化しているのだ。
入試などの一方通行性をもった画一的な制度は、実に我々のニーズを崩壊させている可能性がある。
多少の妥協はあっても、この違和感に切り口を入れるのを忘れてはならないだろう。
最後に、言語的語彙力の選択性に関する議論を展開したいと思う。
言語的語彙力の選択制についての個人的見解
ここまで、学習の意義を最大限引き出すためには選択することが大切と述べてきた。
最後にはなるが、言語的な語彙力を増強することに対する私の見解を述べておきたいと思う。
冒頭で述べた通り、私は現在の入試制度に違和感を抱いている。
そのため必要以上に知識の植え込みをさせられていると感じる機会も度々あったのだが、現実逃避することの出来ない現状が常に目の前には広がっている。
ここまで、選択を重視する旨の内容を述べてきたが、特に入試を放棄することは難しいのが現状である。
私はこのことを踏まえて昇華し、国語の学習に意義づけをした。
ここでいう意義づけとは、国語の学習に意味を与えるということである。
当然文章を書く際に日本語は用いるわけであり、無用というにはほど遠いという具合にである。
漢文の学習においても、我々が普段使っている漢字は中国がルーツであり、漢文的な特性も帯びておるため無用ではないという具合にである。
やりようは多くあると思う。
私は国語の学習に敵意は抱いていないが、包括的な受験システムが編み出した迎合概念に適合しようとする人間は好ましくは思わない。
常に意味を模索し続けて、自己判断を下す。そうすることによって得られる発見があるかもしれないし、不特定多数の人と意見共有があるならば、なお良いと思う。
私は新たな学びを得ることで悦びを抱く。そのため、数多くの知識を得て応用したい思っているわけで、効率性も図る必要があるのだ。
大学入試というある意味権威的な存在との対立も厭わない私の意図を汲んでいただけたら幸いである。
謝意
ここまでお読みいただきありがとうございます。
私がこの記事を書くに至った経緯といたしましては、文章中にも述べた通り自己の考えの統合というものがございます。
しかし、至らない点も多いのでコメントなどで指摘を頂けるとありがたいです。
また、より多くの方に読んでいただきたいため、Xでのリツイートとフォローをしていただけると、著者としては非常にありがたく思います(⌒∇⌒)。
過去の投稿からピックアップ