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極彩色の黄泉の国 -『シリーズ遺跡を学ぶ010 王塚古墳』感想-

概要

日本全国津々浦々、コンビニよりも数多い人工建造物・古墳
古代人のお墓のうち、主に三から六世紀にかけて築造されたものを「古墳」と呼ぶようで、後の時代のものは塚とか墓と書くのが一般的ですね(何でだろう?)

そんな古墳ですが、内部装飾付き物件は驚くほど少ないことをご存知でしょうか?
古墳時代の人は墳丘本体を埴輪や葺石で飾ったり、棺の内部に装飾品を収めたりはしたのですが、棺を安置する玄室はシンプル設計でした。古代エジプト人のお墓が壁画でみっちり埋め尽くされているのとは対照的。

「いや待ってくれ、明日香村の高松塚やキトラ古墳は壁画あるじゃん」と思われた方、実はあれら、全国的に見ても極めてレアな存在なんです。古墳時代終末期(つまり奈良時代初期)の装飾古墳の傑作なので国宝登録されています。

それなら、古墳時代真っ只中に造られた飾り付き古墳はないの?
あります。
装飾古墳自体は珍しいものの、全国にちらほら存在します。とはいえ、大半は彫刻がちょこっと見られる程度。壁画付き古墳は希少で、多くは北九州 福岡県 遠賀川流域エリアに分布します。

古墳本によると、遠賀川流域の装飾古墳群は豪華な幾何学装飾で有名…らしいのですが、実は地元の人以外にはあまり知られていないんじゃないかと疑ってます。九州出身の方に聞いても「?」という反応でしたし、かくいう私も本を読んで初めて知った次第です。

さて、今回紹介するのは新泉社の長寿考古学シリーズ『遺跡を学ぶ』の一冊。北九州装飾古墳の中で最も豪華と言われる王塚古墳を詳しく紹介してくれます。いざ、幾何学文様の世界へ。


書誌情報

『描かれた黄泉の世界 王塚古墳  シリーズ「遺跡を学ぶ」010』
著者:柳沢 一男   出版社 ‏ : ‎新泉社
発売日 ‏ : ‎ 2004/11    四六判 96ページ
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4787722485

最近改訂版が出たとのこと。私が読んだのは旧版でしたが、それと比べて文様の解釈に新しい知見が追記されたとか。


内容について

第一章では1934年の王塚古墳発見時のエピソードが簡潔に語られます。
遠賀川エリアは戦前~戦後直後にかけては筑豊地方の採炭地の一隅として盛大にほっくり返されていたようで、工事中に石室への入口を引き当てたのは幸運でしたが、墳丘は大幅に掘削されたようです。良いのか悪いのか。

王塚古墳壁画レプリカ
出典:クロスロードふくおか https://www.crossroadfukuoka.jp/spot/14025


第二章は王塚古墳の構造を詳細に解説。
王塚古墳は六世紀前半に造られたと考えられ、成熟した古墳築造技術の粋を凝らした見事な横穴式石室を備えています。
さらに和歌山県発祥の石棚(巨大な板岩を天井付近に張り出して作ったロフト)あり、九州と韓国南部で見られる石屋形(遺骸や棺を安置する奥まった屋根付きミニスペース)ありと珍しい構造てんこもり。見どころ抜群です。

天井の朱色の張り出しが石棚、極彩色のスペースが石屋形
出典:クロスロードふくおか https://www.crossroadfukuoka.jp/spot/14025


第三章では他の装飾古墳との比較を行いながら、墳墓装飾に寄せる古代人の思いを考察していきます。
千足古墳の石障に刻まれた直弧紋、古くは岡山県の弥生時代墳墓から出土した楯築墳丘墓の弧帯文石(旋帯文石)など、邪気を祓い魂の平安を願った祈りの形の系譜をたどり、異界に想いを馳せます。古代人の思想は現代の我々には分かりませんが、似たようなモチーフを用いているということは、広域で時代を超えて共有された死生観があったのかもしれませんね。

千足古墳 石障の直弧紋
https://townweb.e-okayamacity.jp/kamo-r/map/tukuriyama/senzokukofun.html


第四章では、いよいよ王塚古墳の壁画に現れるモチーフを詳しく解説。一見するとただの幾何学文様にしか見えない壁画・天井画ですが、目を凝らせば具体的な形象表現も見えてきます。
赤・黄・緑・黒。
乱舞する三角文様に重なるように描かれている盾や弓、馬に跨った人物像。空には天の星と思われる黄色のドット。
それらがどんな意味合いを持っているのか、考古学的知見を元に考察。手がかりの少ない時代のことを想像するのは何とも難しいものです。

なお、王塚古墳壁画は現在かなり退色してしまっているのですが、オリジナルの色彩と文様が分かるのは、最初の発掘調査に関わった京都大学の考古学研究室と日本画家・日下八光氏の緻密な模写のお陰だそうです。素晴らしい。


第五章は壁画に関する追加の考察。
前半は壁画の原料や蕨手文と呼ばれる特徴的な装飾の考察。
後半では遠賀川流域に同一グループの関与を窺わせる複数の装飾古墳が存在することから、どのような権力がこれらの古墳を作ったのか想像を膨らませています。
古文書に度々描かれるように、北九州は大和と対立する強大な権力が存在する場所でした。特に古墳群の作られた六世紀前半の北九州といえば、『日本書紀』にある筑紫の君磐井の叛乱のエピソードが想起されます。
さらに、北九州が大陸交流の拠点だったことから考察は韓国南部へ拡大。高句麗時代の遺跡から似た雰囲気の壁画が出土しており、王塚古墳でも渡来人絵師が関与した可能性が高いそうです。この辺りは中韓での研究の進展にも期待大ですね。

さて、なかなか衝撃的なのが第六章『壁画保存への苦難の歩み』。タイトルに恥じない、本当に苦難の歩みでひっくり返りました。
一般に、天皇家との関連が薄そうな古墳は宮内庁の保護対象外。さらに発見が戦前、しかも筑豊採炭エリア。高度経済成長の前に文化財保護の機運は薄く、王塚古墳は長年放置されたのだそう。まだ文化財保護の枠組みが未熟な時代、壁画はどんどん色褪せ、カビや酸素の影響で劣化していきました。

そんな王塚古墳を守り抜いたのが西村二馬にしむら つぎまさんという熊本県の方。古墳に惚れ込んだ彼は何と五十四年間、石炭業者が古墳を破壊しようとするのを文字通り体を張って止めたり、台風の日にシートをかけて古墳を保護したりと凄まじい奮闘。この献身があったからこそ、今の王塚古墳があるのだとか。
装飾古墳は1970年代に明日香村のキトラ古墳発掘により保護の機運が高まったものの、北九州での具体的な事業化は遅く、保護整備事業が始まったのは1982年、完了は1993年だったそうです。もう少し早く手を打てれば良かったのに…返す返すも残念な感じ。

現在、王塚古墳石室は保存施設で覆われ、通常は立ち入り禁止、年に二回の一般公開で石室を見学できるそうです。行ってみたい!
なお、古墳の隣には保存施設(王塚装飾古墳館)があり、原寸大の石室レプリカを堪能できる模様。


最後に

類まれな装飾古墳でありながら、いまいち全国的な知名度が低い王塚古墳を徹底解剖する一冊。考古学ファン必見の内容です。オススメ


おまけ

前に書いた『シリーズ 遺跡を学ぶ』の高松塚・キトラ古墳編の感想記事も良かったらどうぞ。


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