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独創の画家・田中一村――最新資料から再考する生涯【東京都美術館】

2024年秋の東京都美術館は『田中一村 奄美の光、魂の絵画』展で大盛況。生前、いつか東京で個展を開いてみたいと言っていた一村。本人の想像を遥かに超えた大規模展覧会となっての開催です。年々評価が向上し、ファンも増えてきた田中一村の総合展覧会ですので、お待ちかねの方も多いのではないでしょうか。
実際、私は平日の午前中に行ったのですが、チケット売り場はすでに長蛇の列、展示室内は熱心な鑑賞者――特に年配の方々で溢れかえり芋洗い状態。文字通り人混みに揉まれながらの鑑賞となりました。



孤高の画家・田中一村?

田中一村とは何者か。
まずはChatGPTくんの回答をご覧ください。

田中一村(1908-1977)は、日本画家であり、「日本のゴーギャン」とも称される人物です。栃木県生まれで、幼少期から絵の才能を発揮し、東京美術学校に入学しましたが、2か月で中退。その後、中央画壇から距離を置き、自らの絵を追い求め続けました。50歳で奄美大島に移住し、大島紬の染色工として働きながら奄美の自然を題材に絵を描き続け、その作品は色鮮やかな動植物の描写で高く評価されています。生前は無名に近い存在でしたが、没後に再評価され、多くの展覧会が開かれています。奄美での生活は厳しいものでしたが、地域の支援を受けながら一村の芸術は開花し、独自の日本画の境地を築き上げました。

ChatGPT4o

はい、ほぼパーフェクトな紹介文です。AI強いな
補足しておくと、東京美術学校とは現在の東京藝大のことで、同期には日本画の巨匠・東山魁夷が居たそうです。田中一村は日展に何度も応募しては落選していますが、東山魁夷が当時の審査員の一人だったことを思うと、二人のコラボが実現しなかったことは少し残念。
若い頃の一村の画号は『米邨べいそん』。一村を名乗ったのは1947年以降みたいですね。
中央で評価されず、遠く南の島で創作に花を咲かせたという点でゴーギャンのようと評されますが、奄美時代の作品はむしろアンリ・ルソーに近い印象。濃密な熱帯の気配が漂う、珍しい日本画です。

ゴーギャン『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』の一部
タヒチを舞台に描かれた大作。
アンリ・ルソー『夢』
濃密なジャングルの描写に引き込まれる。

田中一村が生前ほとんど評価されなかったというのは概ね事実らしく、彼が奄美で亡くなった直後は親族・知人の間でしか話題に上がらなかったようです。
一村の名が知られるようになったのは、NHK日曜美術館1984年12月16日放映の『黒潮の画譜~異端の画家・田中一村』南日本新聞の連載『アダンの画帖~田中一村伝』が登場した後のこと。奄美を取材したジャーナリストが偶然見かけた一村作品に惚れ込み、全国に発信したのがきっかけです。
奄美に田中一村記念美術館がオープンしたのが2001年ですから、没後四半世紀のあいだ恒常的に作品を見ることが出来ない幻の画家だったわけですね(今日の東京都美術館の賑わいを見ると嘘みたいだ)。なんでこの才能が見過ごされたんだと、振り返って見れば不思議でいっぱい。


展覧会の概要

田中一村初の東京展は、300点を超える作品が展示される非常に大規模なもの。でも、ちょっと待ってほしい。
田中一村が奄美で描いた作品ってスケッチを除いたら30枚くらいしかなくない?

どこから300点も集めて来たのかと不思議に思いましたが、現地を訪れて納得。神童と言われた幼少期の作品に始まり、2010年以降に新たに発見された作品群を含む、田中一村の生涯にわたる作品を展示しているのです!
展示は年代順に『第一章 若き南画家「田中米邨」 東京時代』『第二章 千葉時代 「一村」誕生』『第三章 己の道 奄美へ』の三章仕立て。
特に千葉時代が長い! 量が多い! じっくり見ていると疲労困憊します。
田中一村の真骨頂を味わいたいのであれば、最初の方はスルーして三章を鑑賞し、それから一章に戻る流れでも良いかもしれません。

本展では最新の研究成果を交えながら、従来の「孤高の画家」というイメージを超えた、より複雑な田中一村の実像に迫っています。新発見の絵画や資料が伝える一村の姿は従来像からのアップデートをいくつも含んでいますので、展示の注釈も要注目です。


第一章 若き南画家「田中米邨」 東京時代

自分は一村の若い頃というと千葉時代(第二章)しか知らなかったのですが、今回の展覧会には十代の作品も大量に出ていまして、この頃すでに卓越した画才を発揮してバリバリ作品を量産していたことが分かります。間違いなく神童というやつです。びっくり。
少年期の一村のジャンルは南画――中国文化の影響下に力強い筆致と奔放なスタイルで山水花鳥風月を描く絵画。千葉時代とも奄美時代とも全く違う画風ですが、意外にもそこには後年の作品の萌芽が確実に潜んでいました。

初期作品で特に興味深かったのは『藤花図』と題された縦長の掛け軸。奄美で独自のスタイルを確立する遥か以前の南画にも関わらず、絡み合う藤のツル、垂れ下がる花が画面を埋め尽くす息苦しいような画面は、奄美の森の闇と同じ波長でぐいぐい迫ってきます。

左から『藤花図』、『日廻草』、『艶鞠図』、『石榴の花』
写真はTokyo Art Beat記事 https://www.tokyoartbeat.com/articles/-/isson-tanaka-report-202409

同時期の作品に共通して見られるのは「生命力溢れる」なんてヤワな表現では物足りない、情熱が画面からはみ出しミチミチと増殖していくような植物描写。南画は元々ダイナミックなものですが、それを超越し「やりすぎ」とさえ感じさせる作品です。
一村のこの傾向が、後の奄美時代に見られる、複雑に絡み合い、有機的に分岐結合を繰り返す奇妙な形状の植物描写につながっていくのでしょう。
奄美作品は一村が南国の自然に感動して生まれたと思っていましたが、むしろ逆で、濃密な植物の乱擾を希求していた一村のパッションがついに楽園を見出したのかもしれません。

会場には他にも興味深いものがあります。一村自身が彫った彫刻の数々、なんと木魚まで! この木魚、単なる装飾品ではなく実際に良い音だそうで、割と最近まで現役で使われていたそうです。ポクポク。木彫り職人の家に生まれ育った一村の技術の幅広さを示す貴重な展示品ですね。

一村の木魚。鳴らしてみたい。
https://artexhibition.jp/topics/news/20240919-AEJ2360269/


第二章 千葉時代 「一村」誕生

父を亡くした三年後、三十歳の田中一村は心機一転を図るためか、千葉市千葉寺町に引っ越します。作品もそれまでの濃密な南画から、素朴な風物を抒情性豊かに描き上げた風景画が多くなり、また色彩の面でも淡く透明度の高い色彩が増えていきます。千葉寺町で活動した時期は『千葉時代』と呼ばれ、青年期と奄美の間をつなぐ重要なピース、奄美の揺籃期と位置付けられているようです。

千葉時代の一村は自宅周辺の風景を定点観測のように繰り返し描き、地元の知人に譲ることもあったといいます。『千葉寺 春』はそんな連作の一枚。松林を背景に、のどかな農地の眺めがさらりと描かれた作品です。このときは桜が咲いていますが、夏になれば緑が滴り、秋は紅葉、冬は木枯らし雪景色…と何度も描いているあたり、お気に入りの構図だったのでしょう。モネを始めとする印象派も似たようなことをやってるので、触発されたのかもしれません。

『千葉寺 春』
https://isson2024.exhn.jp/exhibition/

およそ二十年間の千葉時代、それまで田中米邨名義で活動していた彼は「田中一村」として公募展に応募したこともありました。日本画の定番である日展・院展には何度も作品を出したようですが、すべて落選。なぜ…? 実力もあるし、構想も良いのに。独特のスタイルかつ無名の画家だから一次選考で切られてしまったのでしょうか。見る人が見れば少なくとも落選は免れるクオリティなので、本当に巡り合わせが良くないなぁ…

そんな一村、一度だけ中央で賞を貰ったことがありました。日本画壇の大家・川端龍子が主催していた青龍社展で入選した『白い花』です。
原色に近い濃い緑で若々しく繁る葉を描き、背景に溶け込みそうな白い花を葉陰に咲かせた、清冽な印象の二曲屏風。前景に比べ背景の描き込みはシンプルですが、ほの白い余白が奥行きを感じさせて爽やか。正面に立つと雑木林の庭に迷い込んだような感があります。
咲いている花はヤマボウシという、ハナミズキの一種だそうです。

『白い花』
https://isson2024.exhn.jp/exhibition/

かの川端龍子に認められたなら順風満帆…とはいかないのが一村の辛いところ。次に熱を入れて描き上げ、応募した『秋晴』が落選したことで芸術観の違いから川端龍子と決別し、再び画壇から遠のいてしまいます。OH…本当に巡り合わせが悪い…
『秋晴』は川端龍子好みではないかもしれませんが、赤みを帯びた金地に繊細な筆致で農村を描いた美しい一作。背景の金色が秋の夕日の色に良く似ていて、郷愁を掻き立てられる屏風です。

左:因縁の『秋晴』  右:『忍冬に尾長』
https://images.app.goo.gl/7EKhBC1Lk2B33Q1m8

この時期、目を引く作品に『忍冬に尾長』という縦長の絵があります。明るい色調と構図の作りが後年の奄美作品に良く似ており、千葉の風景を描いていてもアカショウビンとビロウの森を予感させる要素はすでに熟していたことが分かります。


第二章の補足:奄美に行く前の一村像を改める。

今回の展覧会で特に驚いたのは、二十代~三十代にかけての作品が大量に発掘されていたことです。手元の『田中一村作品集 新版』(2001年発行)ではその時期の作品はほんの数点しか知られていない…相次ぐ肉親との死別に消沈し、作品を描けなかったのかも、と書かれていましたが、21世紀に入って二十年以上にわたる調査によって二十代の絵もそれなりの量が見つかり、一村の創作は生涯続いていたことが明らかになりつつあるようです。
新たな研究成果と発見された作品群により、従来の「孤高の画家」というイメージが覆されつつあるのかもしれません。

また、一村本人が知人に宛てた手紙で、二十代で画風の転向をするにあたり、今までの支援者ほぼ全員と縁を切ったという内容のものが知られています。最近の研究では、必ずしも全員と切れたわけでもなく、各地に旅行に行くための資金援助をしてくれたパトロンたちに直筆色紙を送ったりしていて、良好な関係を保っていた人もいた模様。
2000年頃の一村像からは大分ズレてきたみたいなので、新しい一村の研究書を読んで情報をアップデートしないとだめかも。

一村が過去作品を自ら焼却し過去を精算した逸話についても再考の余地がありそう。このエピソードは芸術への妥協なき姿勢の表れとして語られ、「東洋のゴーギャン」や「孤高の画家」のイメージを強化する一因となっていたものですが、燃やされて消失した絵が存在したのは間違いないものの、そうでないものも大量に残っているのは明らかです。芸術家の言葉を鵜呑みにするのはリスキーですね!

千葉時代のラスト、展示会場で印象深かったのは、奄美へ移住する直前に制作された襖絵の連作でした。奄美行きの資金を提供したパトロンのために描かれたとされています。日本の伝統的な襖絵の様式を守った美しい作品で、奄美で新境地を切り開く前の最後の伝統的ジャポネスクを感じさせるものでした。

個人邸宅のために描かれた『四季花譜図』『白梅図』
https://www.tokyoartbeat.com/articles/-/isson-tanaka-report-202409


第三章 己の道 奄美へ

さて、いよいよお待ちかねの奄美コーナーにやって来ました!正直、一章二章で頑張りすぎてヘロヘロです。
奄美の部も最初は色紙やスケッチ、一村が趣味にしていた写真の展示など、割と軽めの内容が続きます。資料としてはとても面白いですが、「奄美の一村を早く出せ!」と思われた方は先に進むのがおすすめ

奄美の杜を描いた作品が集結しているのは最後の部屋ですが、手前にも力作が点在しています。

展示風景。左から『アダンと小舟』、『蘇鐵残照図』、『パパイヤとゴムの木』
https://artexhibition.jp/topics/news/20241004-AEJ2404024/

おお~、一気に南国ムード!
それでも、パパイヤとゴムの木みたいな南国植物をあえて薄墨で表現するあたり、日本画の伝統の上に生まれた表現だなぁと感じます。
蘇鐵ソテツの残照図は前景と背景のコントラストが美しく、そこはかとない郷愁を掻き立てられる作品。一村はみっちりした前景にそっと背景を忍ばせ、世界の奥行きを感じさせるのが得意ですね。なお、ソテツの花はじっくり見ると小さな葉っぱあるいはイソギンチャク状の皮と赤い種子をぎっちり詰め込んだような見た目で、集合恐怖症の人にはちょっとツライ画面かも。

そして一村といえば「アダン」! 奄美以南の海岸でおなじみの植物だそうです。昔この絵を見たときは「これぞ理想のパイナップル!」と思ったのですが、パイナップルとは縁もゆかりもない植物なのでした(そもそもパイナップルは木にならない)
もっとも沖縄の人いわく、観光客の90%までがパイナップルだと勘違いするそうです。無理もない。

熟しつつあるアダンの実、画像は「沖縄百科事典あじまぁ」より
https://100.ajima.jp/nature/of-land-plant/trees/e75.html

なお、アダンの実には毒があって食べられないと石垣島のご老人が言っていたのですが、最近は「一応食べられる」というのが分かってきたそうで、食レポ記事もありましたが、味と食感は大分アレとのこと。たしかに展覧会のショップでアダンケーキを売っていないのが答えなんでしょうね。


さて奄美時代、一村自身が最高傑作と見做した作品が二枚あります。閻魔大王への手土産と評した『不喰芋と蘇鐵』『アダンの海辺』です。

『不喰芋と蘇鐵』 展覧会公式HPより
https://isson2024.exhn.jp/exhibition/

『不喰芋と蘇鐵』は濃密な前景の合間から、島の象徴である立神岩の浮かぶ海を遠く望む一枚。南国の植物はベタ塗りのようでいて、近くで見ると繊細な筆致で描き込まれていることが分かります。まさに画布の上の宝石と呼べる美しさ。神と祈りを意識させる、楽園の風景です。
この作品は田中一村の最高傑作にして、世間から忘れられかけていた彼を再び現世に呼び戻す契機となった一枚でもあります。一村の伝記を最初に書いた新聞記者・中野惇夫氏は奄美での取材中、この絵を見てとてつもない天才が埋もれていたことを確信したと述懐していますし、初の回顧展の開催は日本画のプロにこれを見てもらったことが原動力になったのだとか。

閻魔大王に捧げるはずが、現世で大活躍した一枚。実物をぜひじっくり味わって欲しい作品です。


『アダンの海辺』 展覧会公式HPより
https://isson2024.exhn.jp/exhibition/

もう一枚の『アダンの海辺』は背景が広く取られているために『不喰芋と蘇鐵』よりも風景画に近い印象を与える作品。浜辺に打ち寄せられた小石のひとつひとつ、さざなみの繊細な表情が丁寧に描きこまれる一方、南国の日差しを覆って金色に輝く積乱雲は天へ伸びやかに広がっています。
楽天的でもなく、かといって悲観的でもない。穏やかな景色の中に永遠の姿が描かれているような、なんとも味わい深い作品でした。

奄美シリーズにはその他、濃密で息苦しくなるような森を描いた『檳榔樹の森』や鳴き声が音階になっているアカショウビンの登場するシリーズなど、数は少ないながらも観察眼と表現力が結晶化した名作が目白押し。
強烈な画面に囲まれていると圧倒されるばかりです。

無名だった画家が生きた証は何よりも雄弁に作者の存在を語り続け、そして今があるんだなぁと感慨深く思いました。


まとめ:新たな地平線に立つ田中一村研究

『田中一村 奄美の光、魂の絵画』展、一村の作品をたっっっぷり鑑賞出来るのはもちろんのこと、単に過去を振り返るだけでない、田中一村研究の新たな地平線を示す展示としても興味深かったです。

リアルタイムの研究の進展とともに、田中一村という画家は思っていた以上に複雑で多面的だと分かりつつあります。南画の天才としての出発点、千葉時代の模索、そして奄美での芸術の開花まで。彼の芸術的成長の軌跡は、それ自体が壮大な絵巻のよう。

新たな作品の発見や、これまで知られていなかった事実の解明など、一村の全体像を把握するための試みは今なお続いています。いつか次の展覧会を訪れる際には、新しい一村の顔を知ることになるかもしれません。それが楽しみでもあると同時に、奄美作品はやはり変わらぬ感動を呼び起こしてくれるのではないかな、とも思うのでした。


参考資料

写真がいっぱいのレビュー記事:


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