人生の秋を迎えた今考える。私はなぜ、女に生まれたのだろう。
以前から考え続けていることがある。私はなぜ、女に生まれたのだろう。女に生まれてよかった、と思ったことは一度もないし、自分が女であることは重荷でしかない。そうかと言って、自分の体を男に変えてしまえば、はい、問題解決! というような話でもないのである。何だろうなあ。この、自分の性別を肯定できない感じ。人生の秋、更年期を迎えた今、ここまで自分が女をこじらせてしまった理由を考えた。(写真は京都府立植物園ですが、今回の文章とは関係ありません)
自分の性別について初めて考えたのは、幼稚園の頃にさかのぼる。
ごく短いショートカットだった私は、「オトコ」というあだ名をつけられ、「髪を伸ばしたい」と泣きながら母に訴えた。
母は「あなたはショートの方が似合うのに」とぼやいたが、髪を伸ばすことを認めてくれた。私は、可愛い髪飾りやヘアゴムを集め、おさげ髪にして幼稚園に通った。「オトコ」とは呼ばれなくなった。
理由はわからないが、母にははっきりと、私が女性らしい恰好をすることへの嫌悪感があった。
中学生の頃は松田聖子が大人気。私は段カットにし、くるくるドライヤーを使って鏡の前で一生懸命髪を巻いた。
母はそんな私を「ばかみたい、気持ち悪い」と蔑んだ。
フリルがついたブラウス、ふんわりしたスカート、レースがついた白いソックス。母は、こうしたものがことごとく嫌いだった。私が髪を短くし、デニムをはくと機嫌が良かった。私も面倒くさいので、ショートカットとデニムが好きなふりをした。
大学生の時はバブル期。フューシャピンクの口紅と、ボディコンシャスのワンピースが流行った。私は相変わらずデニムをはき、まっすぐな髪を一つに結び、すっぴんで大学に通っていた。化粧をすると、自分の顔の印象があまりにも変わるので怖かった。
長い間、私は、自分が女だから母に愛されないのだと感じていた。
だから、性別は女だけど、息子のように行動すれば、いい母娘関係がつくれるのではないかと考えた。
そうして無理をかさね、自分の本当の姿がわからなくなって苦しみ、ある日、母とは連絡をとらなくなった。
母と会わなくなってしばらくたち、私は銭湯に出かけるようになった。
湯舟につかり、子どもから若者、おばさん、おばあさんまで、色々な女性の裸を、失礼にならない程度に鑑賞する。ぴちぴちした裸も、太った裸も、萎んだ裸も、ただ自然にそこにある。無防備な姿で、髪や体をがしがし洗っている女性たちを見ているうちに、なぜだか心が癒されてくる。
ありのままの自分を愛すること、女に生まれた自分を愛することは、私が残りの人生でやらなければならない、宿題のようなものだ。
頑張れ、自分。