スポーツ型と読書型
物事のどこに力点を置くのかによって、人はスポーツ型と読書型に分けられるだろう。
スポーツ型は、「うまくできるようになること」に力点を置く。昨日できなかったことが今日できるようになり、明日になるともっとうまくできるようになるということ。連続的な能力の発達を尊び、他者(過去の自分含む)との勝ち負けに関心がある。換言すれば、共役可能な一つのパラダイムやルールの中での比較こそが、スポーツ型の人間にとっての人生の幹である。
対して読書型の人間にとって、「ものの見方を変えられること」こそが人生の本領である。本を読むという体験はそのほとんどの時間が退屈であるが時折「回心=方向転換conversion」させられることがある。そうした非連続的な変容の出来事を待つのが読書型の人間の喜びである。それは、世界に対する能動的な演者=行為者actorとしてその世界の中で競争するのではなく、世界が別用でもありうることを観想し言祝ぐだけのことである。
あらゆるものが市場化し交換可能になった現代において、スポーツ型の人間の態度の方が適応的であるのは言うまでもない。生産性が第一原理である資本主義社会において、何も生産せず社会をドライブさせることもない読書型の人間は単なる消費者として卑下されるし、実際そこに堕する。区別はつかない。
しかし、人間が「何かを生み出すことができる=productiveである」と考えられるようになったのはごく最近ではなかろうか。人間を超えた存在(神?絶対者?)の創造性creativityに平伏し言祝ぐことこそが人間の本領だったのに。今や人間を超えた存在は、人間の中から再帰的な形で、つまり人工知能として、しか想定されなくなった。
作家を含めた芸術家が神に置き換わったのが近代以降なのだから、確かに読書型の人間も近代の申し子であり、だからこそどうしようもない消費者性によって特徴づけられる。しかし系譜的に正当なのは私たちの方であると言わなければならない。