見出し画像

映画『ふれる。』感想

久々にアニメ映画を見に行った。『ふれる。』という作品

『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない』とか『心が叫びたがっているんだ』といった、テン年代を代表する正統的青春アニメを作ったスタッフ(監督:長井龍雪、脚本:岡田麿里、キャラクターデザイン:田中将賀)の最新作ということで見に行った。

エンディングロールで初めて気付いたのだが、主人公の男の子(小野田 秋)のCVがking & princeの永瀬廉ということもあって、king & princeファンも集客されていたようだ。

まず映画を見ていて思ったのは、(全く本質的な点ではないものの)主人公がとんでもなくイケメンだな、ということ。
特に小学生時代が可愛すぎる。。。。
寡黙系イケメンは揺さぶってくる。

以下映画を見ながら連想したこと列挙。ネタバレあり。


1. 「空」の描写のシーン

アニメとしては、『あの花』『ここ叫』などと同じで映像がきれいでよかった。「空」の描写のシーンが特に印象に残った。
新海誠(例:天気の子)や宮崎駿(例:千と千尋の神隠し)もそうだが、アニメにおける「雲の上の描写」は「地上の論理」を超えた「天上の論理」に触れることを描いていて、そこからの落下は生成変容の後に(一度「死んだ」あとに再生して)「地上」に帰還することを示唆する。
その系譜とバリエーション(差異)が、日本のアニメーションの一つのテーマなのだろう。

今回の場合は「綿飴みたい」と思うことで実際に雲は綿飴になる。
それは「子供」としての空想の力(連想の力)が発揮されている。

しかし一時的に重力の支配圏を逃れながらも、「やはり雲は雲だ」と認識してしまい再度雲から落下してしまう。
このことが意味することは、彼らがすでに「子供」ではないこと、「大人になってしまっている」ことであり、「ふれる」を用いた直接的な(ユートピア的な)コミュニケーションを断念し、「言語」を用いた間接的な(メディア論的な)コミュニケーションへの移行が不可避であることを示唆しているような気がする。
「ルソー的な〈コミュニケーションの直接性の幻想〉を捨て、もう一度〈正しく〉つながりなおす」ということか。

2. コミュニケーションの直接性への憧憬

しかし実際、「ふれる」を通したコミュニケーションはフィルターを介している。つまり、もめごとになりそうな思いはブロックされているということ。
直観とは違い、「ふれる」によるコミュニケーションは「直接的(純粋)」ではなく「間接的(人為)」ということだ。

この事実が主人公の男の子3人に衝撃を与えるのだが、言語を用いたコミュニケーションもフィルターを介しているし、実際それは発話者の主体的な意図によるものだけではなく、言語そのものの性質によって不可避的に(主体に意識されない形で)なされているものもあるだろう。
「何ものにも汚染されない純粋な意思」など本当に存在するのか(仮にあったとしてその〈純粋な意思〉は本人が把捉可能な〈それ〉と一致するのか)、という問題もある。

他者から秘匿される「秘密」こそが責任の条件であるならば、(つまりそれは①「近代的個人」として、他者から区別される自己を有することが大人=責任主体の条件であり、かつ②「ポストモダン的個人」として、自己の他者性を擁護し自己の掌握不可能性を受容することが倫理の条件であるならば)、直接性を断念すること、つまり①他者の「秘密」を許容し②自己の自己自身への「秘密」を許容するというエンディングは「責任主体」としてのあるべき姿を描いているのかもしれない(そんなエンディングだったかどうかは覚えていないが)。

3. エンディング

エンディングで「ふれる」が消えずに、ものすごい小さくなっていたのも印象に残った。なぜだろうか?なんにせよ可愛かった。


総じて良い映画だったと思う。
『ここ叫』とかを見ていたころの気持ちが思い出されて、懐かしい気持ちになった。


いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集