辞世の句vol.07 「吉田松陰」
「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かしまし 大和魂」
意味:この身が例え武蔵の地で滅びても、大和魂は留め置いておこう
吉田松陰は、1830年(文政13年)に「長州藩」(現在の山口県萩市)の杉家に生まれ、叔父(吉田家)の養子となります。
18世紀の終わり頃から19世紀の中頃にかけては、多くの外国船が日本の
近くに来航してしたし、一揆も盛んに行われておりました。
21歳となった吉田松陰は状況を確かめるべく、青森から長崎まで遊学しています。
1854年(安政元年)には、海外の状況も見たいと考え、下田のアメリカ軍艦に乗り込んで密航しようとしますが失敗。萩藩(長州藩の別称)の牢獄「野山獄」(のやまごく)に入れられてしまいます。
1855年(安政2年)、野山獄から解放されて、杉家で幽閉となった吉田松陰のもとに、講義を受けたいと若者や親族が集まります。そして、自由な空気の「松下村塾」を主宰。「高杉晋作」「伊藤博文」といった人々を育てていきました。
「日米修好通商条約」が締結すると、吉田松陰は江戸幕府を批判。再び
野山獄に入れられてしまい、1859年(安政6年)、処刑されました。
辞世の句は、弟子への遺書「留魂録」(りゅうこんろく)の冒頭にある句。
自分の意見を貫き通した吉田松陰の、国を思う気持ちが感じられます。
著名人が遺した辞世の句/ホームメイト (touken-world.jp)
https://www.touken-world.jp/historical-last-words/ より
吉田松陰の人物像~どんな人だったのか?
満29歳で早世するまで時代を駆け抜けた若々しい⻘年、先生が著した士規
七則を要約した3つの言葉「立志」「択交」「読書」のメッセージが込められています。
9歳のときには、長州藩の藩校明倫館(めいりんかん)で教師の見習いとなるなど、その秀才ぶりは藩主毛利敬親(もうりたかちか)をも驚かせたといいます。
牢屋に移された松陰は、1年間に約600冊もの本を読み、また黒船への密航を振り返った『幽囚録』も書きました、本当に凄い才能とバイタリティの持ち主?
西洋の動向に注目し、日本の将来について深く考えていました。 彼は、鎖国
政策の限界を認識し、日本の開国と近代化の必要性を強く訴えていました。
彼の思想は、彼の著作や松下村塾での教えを通じて、多くの人々に影響を与え明治維新の思想的基盤の一つとなりました。
現代に蘇ったら何をどうするでしょうか、この国は大きく変わりでしょうかね?本当に維新の時は凄い英傑が多数出てきておりました、それに引き換え今は?