『鬼滅の刃』と仏教

こんにちは、久保山光明寺副住職石田一裕です。みなさん『鬼滅の刃』という漫画をご存知でしょうか?
今週月曜日発売の週刊少年ジャンプ(2020年第24号)で最終回を迎えた大人気作品です。
今でもジャンプを手にとる読者として(娘たちから「パパが読むのはおっさんジャンプだね」と言われておりますが)、この漫画の感想をなんだか無性に書きたくなりましたので、書きます。
この漫画、実は仏教的だという考察がありますが(https://kindaipicks.com/article/002039)、私もそれに共感します。漫画は漫画としてお話を楽しむものですが、どんなところが仏教的かを考えてみましょう。
『鬼滅の刃』という言葉を、初めて聞いたという人もいるかと思いますので、簡単にあらすじを説明します。
この物語の主人公は竈門炭治郎(かまどたんじろう)という少年です。この少年は鬼という不死の生き物に家族を殺され、妹を鬼にされてしまいました。そこで、この鬼を狩る「鬼殺隊」に入り、仲間とともに修行を重ね、先輩剣士などと協力しながら鬼を倒していきます。最終的に、全ての鬼の生みの親である鬼舞辻無惨(きぶつじむざん)を打ち倒すというストーリーです。
この作品の中の、鬼は基本的に不死ですが、日光に当たると死んでしまいます。また日輪刀(にちりんとう)という日光の力を秘めた刀で首を落とすことで滅することができます。鬼殺隊の剣士はこの日輪刀を使って鬼を倒していきます。
『鬼滅の刃』には「南無阿弥陀仏」のお念仏や、『阿弥陀経』というお経が出てきて、仏教色が現れていますが、鬼を煩悩として捉えると物語全体が仏道修行のように感じられます(上のリンクで稲田ズイキさんが指摘していますね)。
ここでは、さらに鬼の始祖である鬼舞辻無惨を根元的な煩悩であり、苦しみを生み出す源である無明として解釈して、話を進めたいと思います。
無明とは、読んで字のごとく「明るくない」ということです。この「明かり」とは物事をわきまえる知恵のことで、これがないとおバカなことをしてしまい、とても苦しむことになります。
さて、おバカなこととはどんなことでしょうか。
ちょっとくるくると回るコマを想像しましょう。そのコマが自分だと思ってください。回転していると安定します。回転が弱まると不安定になるので、どうにか勢いをつけて回り続けようと試みます。時々、回転が途切れ目が回り苦しくなりますが、回っていた状態に戻らないといけないと思い込み、また回転し始めます。ぱたりと倒れてしばらくすれば安定するはずですが、なぜだか回らなくてはと思いつづける衝動が無明です。
『鬼滅の刃』で鬼舞辻無惨というラスボスは、まさにこのような存在です。何者にも邪魔されず、永遠に回転しつづける存在。自分を中心に全てを回したいと願う存在です。鬼と聞いて「自分とは違う!」と思うかもしれませんが、彼は日光という弱点を克服しよ完璧な存在になろうとしています。そして、最後の最後にその誤りを気がつき、自分の求めた永遠を託す相手を見つけます(しかしその試みは失敗に終わります)。
完璧になろうということが苦しみを生み、自分を中心に考えすぎたが故に、鬼は苦しみの底に沈んでいきます。
一方、炭治郎たち鬼殺隊は不完全な存在でありながら、日光の力を蓄えた刀で鬼たちを滅していきます。仏教では煩悩を滅する知恵を、火や剣に譬えます。知恵の火によって煩悩という薪を燃やし尽くし、知恵の剣によって煩悩という悪者たちを打ち払うのが、仏道修行です。鬼殺隊の営みは、鬼という煩悩を剣によって打ち破る仏道修行そのものですが、そのためには鬼殺隊という隊に所属し(要するに出家ですね)、自分自身を鍛錬する必要があります。それでも、強靭な鬼(=煩悩)の前に多くの剣士が倒れていきます。仏道修行の過酷さを物語っているようです。
物語の最終盤では、炭治郎が無惨を追い詰めますが、最後に無惨に取り込まれてしまいます。鬼を追い詰め、鬼にとっては宿敵であった主人公が、実は最も理想的な鬼になる才能を秘めていたということは皮肉ではなく、必然のように思われます。仏教の開祖ブッダもまた覚りを開くその時に悪魔の誘惑にあっています。煩悩を滅するという営みは、実は断ち切られる煩悩と肉薄し、その影響を強く受ける危険な状況なのでしょう(スターウォーズのフォースの暗黒面もこの一種だと思います)。
炭治郎は最後に鬼の誘惑を退け、人として目を覚まします。彼は自分自身の力でその誘惑に打ち勝ったのではありません。彼と志を同じくするもの、誰かのために身を粉にして鬼と戦い果てていった人々の思いが彼を救います。自分だけの欲望で自分の理想を押し付けようとした無惨は、自分を後にして人々の幸せを祈ったものたちの思いに敗れたのです。炭治郎は、そして、日常へと戻っていきました。
この漫画の最終回の一話前の回では、その日常が描かれています。喪失を味わいながらもそれと向き合い、供養の心を持ちながら、笑顔で日常を送る様子は心温まるものです。
最終回は、時が流れ、現代。鬼殺隊の剣士たちの子孫と思われる人物たちの日常です。
一人永遠を求めた鬼は消え去り、儚い命を大勢でつなげていった人間が残った世界。そのいつもの日常は、無数の誰かの命の上に成り立っていることのだと考えさせられます。そして、そういう日々が続いていくことが、先人たちの願いであったのでしょう。にっこりと笑って、ドタバタの日々を見守っている、そんなメッセージが最終コマから発せられている気がします。
ご興味ある方は『鬼滅の刃』をお読みいただき、それぞれの感想お聞かせいただければと思います。
長文失礼しました。
久保山光明寺副住職 石田一裕

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