餓鬼ー「鬼滅の刃」の鬼ー
映画「劇場版『鬼滅の刃』無限列車編」が大ヒットしている。興行収入が200億円を超え、歴代五位(2020/11/14現在)を記録した。この物語は仏教といろいろと関連付けられ、お坊さん界隈でも話題である。私もnoteに考察を一本書いてみた(『鬼滅の刃』と仏教)。
大ヒットにあやかり、今回は以下のツートで話した餓鬼について、『鬼滅の刃』と関連させてちょっと話してみよう。
『鬼滅の刃』にはいろいろな鬼が出てくる(気になる方は『鬼滅の刃』HPへどうぞ)。この鬼は生まれながらに鬼なのではない。人が鬼にされるのである。特に、人であったときにいろいろと不幸に襲われたものが鬼になる。しかし、ただ不幸な境遇の人が鬼になるのではない。ラスボスの鬼の血を与えられ、それに適合したものが鬼となる。
これは鬼になるためには一つの才能がいることを意味している。より強い鬼になるには、人を喰らい、ラスボスの血をたくさんゲットする必要があるが、たくさんの血に耐えられず体が崩壊して消え去る鬼もいる。鬼としてより強く、より悪くなるためにもそれなりの器が必要ということである。
さて仏教では餓鬼という鬼を説く。どんな人が餓鬼になるのか?
『正法念処経』というお経によると、餓鬼になる理由は「欲深くケチ」で、「嫉妬深いこと」であるという。この二つの心が働き、いろいろな行いをする。たくさんのものを持っているのに分け与えなかったり、焼きもちを焼いて意地悪をしたり、そんな行いが餓鬼になる原因である。振り返ると、自分も餓鬼になってしまいそう。
欲深いとかケチ、嫉妬深いというのは、自分を中心にした考え方である。
「俺のものは俺のもの、お前のものも俺のもの」
「自分より素敵に見えるあいつが妬ましい」
こんな風な考えが駄目なようだ。けれども自分のものはなるべく人にあげたくないし、自分より輝いている人を見るともやっとする。こういう思いを抱いたことがある人は、誰でも餓鬼になる可能性がある。その中でも実際にたくさんあるのに与えないという意地悪をしたり、妬みから悪口をSNSに書いたりするとその可能性が現実となってしまう。『鬼滅の刃』の鬼もまさにそんな存在だ。強い嫉妬に苛まれて、つよい鬼になったものもいる。
自分を振り返ってみて鬼になる才能が強い人は、なるべく分けあたえ、人の喜びや才能を心で思ってなくてもほめてみたりするよい。いやいやでも行動することで心も変わるだろう。『鬼滅の刃』もすべての鬼がより悪い鬼になるのではないし、また心の奥にほんのちょっとの良い心をもっている(『蜘蛛の糸』のカンダタみたいな感じ)。しかし、残念ながら環境に恵まれず、その良心は働かない。
自分の心の鬼になる可能性を自覚しながら、行いを気を付けていく。自分の中の良心をちょっと信じて、善い行いをするのが、鬼にならないコツであろう。