読書感想文ってウザかったけど重要だったのかもしれない
みなさん学校の課題で出される読書感想文を書くのは好きでしたか。
あるいは現在進行形の学生の皆様はお好きでございましょうか。
嫌いに決まってるよな!!!!!!!(圧)
「面倒ィんだよなぁ」と本読むのが好きだった私ですら思います。
でも令和現在の学校における読書感想文とは如何なるものか無知なのですが、今思い返せばあの鬱陶い課題って重要な部分を養うためのモノだったのかもしれねーなと考え直したりもしたりして。
【点数の採れる書き方は決まっている】
学生時代にはもう気づいていて、そしてだからこそ面倒でやる気出なかったのが「点数の採れる書き方は決まっている」ってことでした。
令和の教育現場ではどうなのかは知らないのですけれども、少なくとも私の平成の時代では
読んだ本のあらすじを書いたら大体一定以上の点数は貰える。
でした。ここにちょこちょこ「〇〇と思いました」「〇〇(感情)です」とでも挟んで字数稼ぎとご機嫌取りでもしときゃいい。
でも規定枚数の原稿用紙に、このあらすじをブチ込む作業がほんっっっっとに面倒でしてね……。
長い。長いんですよね。もっとこうサクッと短く原稿用紙1~2枚でまとめていいってんならまだ楽ですけど(それでもウザいもんはウザい)。
【あらすじをアウトプットできるのは技術である】
でも最近気づいたんスよ。
読んだ本のあらすじを、脳内から原稿用紙にアウトプットするのって技術であり才能であり養える能力であるということに。
それも規定枚数に達するよう書けるのは学生時代だと間違いなく才能の一つだということに。
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読んだ本の感想自体は頭や胸の中にちゃんとある。
でもそれを文章として具体的に出力するのは難しい。
なぜって思考は言語ではなく感覚だから。
感覚の言語化はとても難しい。それこそパワーワードという言葉があるくらいに、感覚の言語化をするのはセンスが必要です。才能です。
でも思考を感覚だけで捉えて、言語化できずにいると社会生活で苦労するんですよね。
学生時代の子供同士の閉じたコミュニティならそこまで苦労はしない。
そこは自分たちだけで通じる少ない語彙に色々な意味が込められていることを、喋り方や相手の仕草を見聞きすれば把握できるから。
というかなんなら下手に自分の思考の言語化を確りできる方がディスコミュニケーションが起きやすかったりする。
ただ小学、中学、高校、大学と進むにつれて思考の言語化をできなければ困る場面が多くなり、社会人として働くとなると大抵直面する「自分は今何がわからないのかすらわからない」のを思考の言語化技術を磨いていると、とりあえず何がわからないのかを先輩に伝えやすくはなる。
……教えてもらえるかどうかは時の運ですけどね?
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そんなわけで、あらすじを脳内から原稿用紙へのアウトプットする作業とは、インプットした情報を個々人それぞれの圧縮形式として育てることであり、それがちゃんと社会に受け入れられる方式なのかどうかということを試験し養うモノだったんだな、と今では思うのです。
でもその狙いを教師や学校は教えてくれず漠然とした「読書感想文を原稿用紙〇枚書きなさい」となるから頭が痛ェことになる。
「本を読まない児童に本を読む習慣を与えよう」という狙いだけが明け透けに見えるのがこれまた鬱陶いんですよねぇ。本なんか読まなくても人生なんとかなるなんて小学生でも気づいているわ。
まだ読書感想文ではなく、マンガやゲームやアニメや映画の感想文ならちったぁ心の重荷も少しは軽くなるんでしょうけど。
いやもしかしたら令和の教育現場ではそういうのも許されている所もあるのかもしれませんけど。
少なくとも私の時代では「昭和生まれの教師にゃ俺らが楽しんでいるマンガやゲームのことなんてわかりゃしねーから自分たちの時代の文化を押しつけやがってこんちくしょう」と思っていたりしましたね。
……ところで現代ではAIに読書感想文を生成させて、あとは原稿用紙に丸写しって手段がありそうなんですけど、どうなんでしょうかね?
個人的には写生するだけでも、読むだけより思考の言語化技術が磨かれるのでそれでもいいんじゃねーのと教育者じゃないので無責任に思ったりしていたり。
【とりあえず感想を言語としてアウトプットできるに越したことはない】
こちら藤吉なかのさんが熱く語っているのですが「自分の感じた感想を言語としてアウトプットできる能力」は養った方がいいなと、それこそこちらの記事を読んで思ったことでござんして。
「思考は言語ではなく感覚」という持論の繰り返しになりますが、このままでも社会生活はなんだかんだ送れます。
でもやはり先述の持論の繰り返しになりますが思考、感想の言語化能力が無いと「自分が何がわからないのかすらわからない」となっていることすらわからない。
結果、心の中で常に抱いている言語化できない思考や感情に共感できる言葉を見つけた時、それに「いいね」することでそれが自分の思考であり感情なのだと勘違いする。
それが積み重なると、流行っているワードでしか喋ること、思考することしかできない人間の出来上がりです。そしてさらに成功と数値を上げている何かや誰かの言葉を借りることで、どんどん自分というものを失っていく。
だからこうしたことを防ぐために、読書感想文というくっそウザい課題もある程度の意味があるんじゃないかなと私は思ったりするのです。
が。
【他人の言葉だけで生きることはできる】
さて上述した持論を自分でひっくり返しちゃうのですが
自分が何がわからないのかわからないことすらわかっていない
他人の言葉を借りてそれが自分の思考感情だと勘違いする
成功者の権威を借りて自分を失い都合良く消費し搾取される
これって別に悪くない生き方なんじゃないのかな?
いいじゃないですか。むしろ社会に適応した人物ですよ。
消費も搾取もそれで経済が回ることで、一人地獄に落とすことで二人それなりに楽しい人生を送らせる社会になっているのならそれはそれで一つの正解ですよ。どうせ人類みんな残らず幸せになるなんて言っているのはそれこそ怪しい宗教団体くらいですし。
個性とか多様性とか自分らしさとか、そんなお題目に縛られて生きていく方が辛いですよ。
大体、言葉なんて文化自体が先人たちが積み重ねてきたものを借りているものなので「自分の言葉」「自分の感想」すらも、結局はみすぼらしくてみっともない継ぎ接ぎです。
そんな面倒くさいもんに捉われるくらいなら、他人の言葉で右往左往して生きていたっていいじゃないですか。人間は社会性動物なのだからむしろそちらの方が正しい。
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だからまぁ読書感想文なんてウザいし時間の無駄だという意見はわかりますし、同感もします。
こんなもん提出するくらいならフィットボクシングとかやってた方が心身共に健康にいいぞ。
【それでも意味を見出すのなら】
上述のような生き方ができない人間を炙り出し、自覚させることに読書感想文とかいう面倒臭い課題は意義があるのかもしれません。
自分の思考、感情、感想をきちんと言語化できる能力や技術を養った結果、それをどうするかはその人個々人の自由であり、ある種の呪いでもあります。
クリエイター関係の成功を目指して切磋琢磨するのも良い。
あくまで趣味と割り切り、自分がきちんとわかっていながらも社会の時流に乗って生きていくのは、ただ流され消費し搾取されない能力を獲得できるので、これまたよろしい。
やっちゃいけないのは、養いすぎた思考言語化能力で自分を解剖し始めることです。
人間は危機から回避するために嫌なこと、辛かったことなどのマイナスの記憶や感情の方が強く覚えているものなので、こいつをメスにして自分の心というモノを言語というワードに切り出していくと出血の痛みと摘出したモノの醜さで自己嫌悪に陥ります。
つまるところメンタル的な自傷行為ですな。
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なんだか読書感想文というお話からずいぶん離れてしまいましたが「思考の言語化」は諸刃の刃ということです。
自分に刃を向けないためには「流される自分」と「決して流されない自分」の二つを常に持ち続けているのが理想でしょう。
ええはい理想です。
そんなんできたら誰も苦労しねぇって話は、それこそ読書感想文のあのなんとも言い難い面倒くささで味わっているということで、今回はここまで!