春の憂鬱
小学生の頃,私は春が苦手だった.
宿題のない春休み.
習い事もピアノだけで特にやることもなく,自分の部屋で本を読みながら過ごす春休みは退屈でまるで人生に意味がなくなってしまったように感じられた.
部屋は二階で,見下ろす庭の土が春の優しい風に吹かれてすこしかすんで見える.それは,夢の中のようで,窓から勢いよく外へ飛び出してもふわふわと漂えそうに思える.
道端や,あぜ道の新しい草のぬるいにおいが鼻の奥をつき,なにもすることのない私を甘やかしているようなのがひどく苦手で,毎日憂鬱だった.
本を読むのに飽きたら,決まって考えるのが,「人生の意味」と「いつかは死ぬ」,ということだ.どうせいつかは消えてなくなってしまう記憶,からだ.毎日何のために生きてるんだ?考えど考えど答えはわからなくて,怖くなって階下にいる母や父を無言のまま抱きしめる.でも,抱きしめた大切な人もいつかはいなくなってしまうだろう.それは,何かお気に入りのアニメが放送終了するようなものじゃなくって,一つの演劇が終わって幕が降りたあと二度と客席の電気がつかないような,そのくらいどうしようもないことだろう.そう思うたびに私の心はひどく悲しみに耐えられなくなって,おなかの中で大きなブラックホールができたんじゃないかと思うほどに自分の内側と外側がぺろっと反転してしまう気分になる.
あるとき,1階に降りても誰もいなくて,私は庭へ出た.
久しぶりの家の外だ.父が納屋で田植えの準備をしていた.なにか,この問題について,考えたことはないのかな,とふと思い立って
「いつかおらんようになるんやなって思ったら怖いんやけど,どうしたらいい?」
と聞いた.
すると,父は勢いよく近くにあったバドミントンのラケットをスマッシュを打つように振ってから
「何かに打ち込むこと.」
といった.
私は,子供ながらになにか救われたような気がした.考えたくないことには蓋をして,その時が来るまで考えなくてもいいのかな.たいていの問題は先延ばしにするべきではない.でも,この問題に関しては,避けようがないのでいかにうまく考えずに結論を先延ばしにするかが大切ではないか,と.それは,いつか答えが分かるときが来ると信じて.
それから,まったくこの春の憂鬱について考えることがなくなったというわけではない.いつも目を閉じればあの時の父がいて私を助けてくれる.
もうすぐ,父の誕生日だ.私にとってもあれから同じだけの時間が過ぎたわけだが,恥ずかしながらあまり成長できていないような気がしていて,いまだに春の憂鬱のことについては怖い.だけど,自分でも少しずつ見えてきたものもある.それは,大切だなあと思える人が心の中にいること,それだけでたいていの怖いことは何とかなるということ.心から好きだと思えることや,人それが自分を強く支えてくれる.その気持ちが自分の中にあること,それが私にとってとても幸せなことだということ.
帰ったら,いろんな話をしよう.いろんな話をきこう.