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【日常】平家の残り香する寺院にて

 寒暖を繰り返しながら秋が深まってきております。
 息子達が順に家を出て行ってくれたこともあり、私達夫婦もゆとりが持てるようになった気がする今日この頃。殊に、弁当作りから解放された嫁さんは、従前より睡眠時間が多く確保できるようになったと大喜び。
 かくして、慌ただしくも楽しそうな面持ちでお弁当を作る嫁さんの姿を見れなくなった私は、noteで『日々のお弁当』をアップされている方々の記事を眺めて溜飲を下げるといった毎日を過ごしています。 



§ 亡き人を偲ぶ

 去る祝日(スポーツの日)、ほぼ一か月ぶりに嫁さんと休みが合ったのを幸いに、定義山じょうぎさん西方寺さいほうじを参拝することにしました。
 10月某日が『義父の命日』であったこともあり、故郷を遠く離れて苦学の末に自分の居城を構築した義父を偲ぶのに、平家に由来をもつ定義山が相応しい場所だと考えた私は、嫁さんを誘ってみたわけです。 
※定義山のご案内は本稿末尾にて。

定義山 西方寺 の本堂

 元より、一年を通して多忙を極める嫁さんです。
 特に、ここ10余年を振り返れば、震災やコロナといった様々な状況が、彼女を千葉の実家から遠ざけていた感は否めません。そんな寂しい状況にもかかわらず、嫁さんは家族のことを一番に慮っておもんぱかって生活してきてくれました。
 そんな嫁さんと共に 定義山 西方寺 を参拝し、二人で写経でもして義父を偲ぼうと・・・そんな想いを胸に車を走らせたのでした。

平貞能の御廟『貞能堂』山門
かつて、貞能堂は西方寺の本堂でした。

 三連休の最終日ということもあって、西方寺の界隈は大勢の観光客・参拝者で賑わっていました。あえて昼時間を外したのですが、参道の界隈にある食堂やカフェの前には長蛇の列が・・・。
(※だから写真が少ないのです。)

 昔から多くの参拝者が訪れる寺院でしたが、明らかに年齢層が若返っているし、アジア系の言語が飛び交っているところをみると、やはりインバウンドの影響がでているのでしょうね。

安徳天皇の遺品が納められていると云われる『天皇塚』

 そんな混雑を横目にしながら、私達は西方寺を参拝し、貞能さだよしで写経を済ませ、そして境内の各所(将軍神社・天皇塚他)を巡り歩きました。
 それは『心静かなひと時』でした。境内の喧騒に影響されなかったのが不思議なくらいです。

 東京の下町で小さな出版会社を営んでいた義父。
 物静かで思慮深く、いかにも『姉妹の父親』といった雰囲気の人物でした。何かと心配をかけてきましたが、「お陰様で夫婦仲良くやってます。」と伝えることができたように感じています。


§ 飾り気なきもの

 そんなしめやかなひと時を過ごした後、『私の大好きなお店』を覗くことにしました。それが、貞能堂の脇にある籠屋かごやさんです。

 私は、このお店を眺めるのが大好きで、手仕事のヒントを得るために、当地を訪れた時には取材よろしく立ち寄らせてもらっています。
 こちらの籠屋さんは、手作りでありながら価格がリーズナブルなので、梅を干すための笊や、サイズが豊富な籠の類は回転が良いみたいですね。

おとっつあんは耳が遠いので、大きな声で話せば機嫌よく応対してくれます。

 一方、日用から外れている魚籠びく籠罠かごわななどは、比較的求めやすい価格でありながらも、その性質もあってか頻繁に売れている印象はありません。
 けれども、竹というしなやかな素材を編むことでしか成し得ない流麗なフォルム、そして靭性を兼ね備えた堅牢さと機能性は、正に『用の美』を体現している存在だと言えるでしょう。

今となっては活躍の場を失った感のある魚籠。
機能性を満たしながらも嫋やかなフォルムを実現。

 此度は、アトリエで使う卓上箒(400円也)を買い求めました。そして、毎度の如く「おとっつあん、写真を撮らせてね!」と大きな声でお願いしてから、竹籠の納まりを撮影させてもらいました。

 そんなことをしている間に、躊躇の面持ちをした複数の参拝客が、ぞろぞろとテントの中に入ってきました。やはり、人っ子一人いない店内には入り辛いのでしょうね。些少の買い物しかできなかった私ですが、『サクラ』の重責は果たせたようです(微笑)。

先代の卓上箒(下)が痩せてきたので、この度、二代目(上)を準備。

 因みに、「なんで今更卓上箒なんて使うのよ?」と思われる方もいらっしゃると思います。何しろ、ロボット紛いの機械に宅内の掃除をさせる時代ですから、そんな問いが聞こえてきたとて不思議はありません。

 そうした時流を踏まえた上で、私自身は、2年程前からアトリエの掃除に電気を使わないようにしました。その結果「この2年間で私のアトリエは不潔を極めたか?」と言えば、そんなことはありません。むしろ、小まめに掃除をするようになったし、掃き掃除と水拭きの合わせ技で、従前よりも掃除のクオリティーが向上したと言えるでしょう。
 ※手帚や卓上箒の有用性は、下の過去記事を一読賜れれば幸いです。 


§ 不得手を補う機会

 さて、ここから少しだけ話の趣が変わります。

 彫刻を嗜んで久しい私ですが、根本的な考え方として「ヒューマンスケールの物は何でも自分で作れる。」と暗示を掛けながら手仕事を愉しんでいます。もっとも、これは自信が持てない自分の裏返しであり、自分を鼓舞する呪いまじないでもあります。

 殊に、私は『規則性が求められる作業』が大の苦手で、『手仕事好き』と自称しながらも、竹籠のような『編む系』の作業を意識的に避けてきました。(勿の論、今後も積極的に取り組むことはないでしょう。)
 それ故、竹細工や編み物(毛糸・レースなど)を嗜まれている方々のことを羨望と尊敬の眼差して眺めています。

今回は底の補強方法について鋭意確認をば。

 そんな不得手を持つ私ですから、彫刻作品を製作する中にあって、様々な日用の道具を模す場面に出くわす度に「俺は、物の納まりって奴を全く理解していない。」と痛感させられるのです。自身の観察眼を過大評価しているつもりは毛頭ありませんが、実は『見ているようで見ていない』のですね。

 それが為に、こうした機会が、自身の不足している部分を多少なりとも埋めてくれると。本当に有難い・・・古から伝わる技術を習得し、現代まで繋いできてくれた名も無き先達たちに感謝するばかりです。

用途によって補強の程度を変えているのですね。

§ 『用の美』を思ふ

 このような民具を見ていると、私は『現代の日本人の暮し』を省みたくなります。そして、かつて白樺派の人々(柳宗悦、河井寛次郎、浜田庄司など)が興した民藝運動のことを思い浮かべるのです。

 彼らが『用の美』を見い出した様々な民具の一部は、今なお無名性を保持しながらも、ささやかな居場所を確保して存在し続けています。その一方で、大いなる矛盾と欲望と偽善を孕みながら刷新することを強いられ、そして、新たな価値観をまといながら生きながらえる物もあります。

材料の末端処理も重要なポイントですね。何にせよ「始末」は重要です。

 かような書き方をすると、懐古主義者のように捉えられるやもしれません。けれども、私自身は、存在価値の再生や創出に異を唱えるつもりは全くありません。ただただ『実の無い上辺うわべだけの刷新』を施した物に遭遇する度に空虚な思いに捕らわれてしまう・・・そんな感慨を持っている人間も存在しているということを書き記しておきたいだけなのです。
 とまれ、この複雑な思いを言葉にすることは難しく、言葉を扱う術を知らぬ私は、消化不良のまま考えあぐねてしまうのです。

面が変わる部分も工夫が見られます。

 果たして・・・。
 優秀な先達が、市井の人々に伝えたかった『用の美』とは何だったのか?
 そして、彼らの本意は、今を生きる日本人に正しく伝わっているのか?
 凡庸な私には、利便と利益を生み出す付加価値という名の『現代の正義』が、市井の人々から『用の美』を遠ざけている様に映ってしまうのです。

 かの民藝運動が『高等遊民のお戯れ』でなかったことを信じていたい私は、『用の美』の中に潜む精神を『自らの生活』に正しく反映させなければ、現代社会が抱えている諸問題の解決には繋がらないと考える次第です。

地域差が見られる鰻用の籠罠(鰻の入り口・取り出し口の工夫)。

 朴訥とした民具に触れて柔らかくなった心も、最後にはやるせない思いに捕らわれる羽目になってしまいましたが、時には、こうした煩悶も必要でしょう。そんな『解決せぬ宿題』を携え、定義山を後にした私でした。

 といった具合に、『亡き人を偲ぶ話』から一転してしまいましたが、これも秋という季節が成せるわざだと思ってお許し下さい(微笑)。


§ 定義山のご案内

 さて、気分を一新して『地元民ならではの観光案内』をさせて頂きます。

 定義山 西方寺 は、宮城県と山形県を隔てる舟形連峰の谷筋にできた平坦地に鎮座しており、仙台駅から40㎞余りの距離であることから、仙台市民にとって馴染み深い寺院のひとつになっています。

 仙台市民の多くは『定義さん』(じょうぎさん・じょうげさん)と親しみを込めて呼ぶことが多いですね。その理由は、以下の公式サイト内のコンテンツ『定義さんを知る』に譲りたいと思います。

ちょっとしたテーマパークです。

 そして、本稿の題名『平家の残り香~』についてですが、これは西方寺の境内にある『霊廟 貞能さだよし堂』の存在が深くかかわっています。(貞能堂は、西方寺の旧本堂でした。)

と或る日の『貞能堂』の光景。(2018年5月撮影)
社寺仏閣は平日かつ午前中の参拝が好ましいですね。

 壇ノ浦の合戦に破れて逃避・離散した平家の人々が日本各地に山深い場所で隠れ住んだとされる、所謂『平家の落人伝説』が仙台市の西部地域にも遺っています。
 この点については、みやぎ仙台商工会が発行しているパンフレット 『せんだい西部劇場・歴史探訪・平家落人編』がとても分かりやすいので、是非にも参照して頂きたく思います。このパンフレットと前出の公式サイトを合わせて参照して頂ければ、定義山界隈を含む仙台市西部に漂う『平家の残り香』を感じて頂けるはずです。 

観光客が沢山いて撮影できなかった『天皇塚』の正面。(2018年5月撮影)
天皇塚の上には二本の欅が植えられ、成長と共に一本に繋がったとのこと。

 とかく『平家の落人伝説』については、真贋の程が定かではないものも多いと言われていますが、その伝説の出処や根拠は別にしても、人跡の乏しい山間や谷あいに身を潜めて暮らさざる得なかった人々の姿を想像すると、情緒を揺さぶられるような感覚に陥ります。このような部分もまた『落人伝説』が内包している魅力のひとつになっているのでしょうね。

本堂の東手には『定義如来 五重塔』が。
何故かこちらは閑散としていました。(当日撮影)

 それから・・・そうそう大事なことを忘れていました。
 定義山といえば『三角油揚げ』です。

行列ができる『とうふ店』はこちらです。(当日撮影)

 この日の定義とうふ店さんの店先には長蛇の列が連なっていたので、私達夫婦は並ぶことをやめました。嫁さんもがっかりしていましたが、言っても『地元民』ですからね。次の機会に譲りましょうと。(三角油揚げを取り扱っている近隣のお土産屋さんも売切れ状態でした。)

定義とうふ店さんの三角油揚げ(2019年4月撮影)

 定義とうふ店さんの人気は、三角油揚げの美味しさは当然として、出来立ての油揚げを店舗脇に設けられたフードコートで食べることができる点も挙げられるでしょう。揚げたての油揚げに、備え付けの醤油とニンニク七味をかけて頬張れば、東北の山間にある寺院を訪れた思い出の一場面になるはずです。(※火傷するくらい熱い場合もあるのでお気をつけ下さい。)

 因みに、友人知己の類を何度も案内してきた結果、幾度となく現地で出来立ての油揚げを賞味してきた私としては、自宅に帰って一度炙ってから、ネギ・ダイコン・ショウガ・ミョウガといった薬味をたっぷり載せて食べることをお勧めします。(煮物にも最適!)

 と言った具合に、信仰と歴史と素朴なグルメを楽しめる場所、それが定義山なのです。


§ 定義山界隈の変遷(興味のある方向け)

 さて、ここからは定義山界隈の変遷に話を広げて参りましょう。

 当然の事ながら、定義山の開山から現在にかけて、この山深い地域にも様々な出来事がありました。
 その一つとして、世界恐慌時(1929年)に敷設された定義森林鉄道(1963年全廃)が挙げられるでしょう。恐慌の影響により燃料に窮したことから、当地から薪を運ぶために設けられたと言われています。(※かつては、大倉川の上流を遡行すると森林鉄道の木橋もくきょうを見ることができましたが、現在は朽ちてしまったと聞いています。)

 それから、西方寺から更に奥へ進んだ場所にある十里平じゅうりだいらという開拓集落(下地図の赤印)にも触れておく必要があるでしょう。

十里平は山襞の平坦地を開拓してできた集落。

 それにしても、この地名・・・面白いですよね。開拓者の「俺たちは10里分の土地を平らにしたんだ!」という気概と同時に、何とも言いようのない奥ゆかしさを感じさせます。
 なお、十里平の開拓は、先の大戦後まもなく開始されたようです(昭和30年代)。多分に漏れず、戦地からの引揚者を入植させ、原生林を農地や集住地に拓いていったとのこと。

山間の開拓地『十里平』。(2008年6月撮影)

 前出の通り、既に森林鉄道が敷設されていたとはいえ、集住に適していたかと言えば、そんなことはありせん。何しろ、標高400mを越える高所山地です。冬期間は想像を絶する寒さであったことでしょう。

十里平集落に現存する『大倉小学校十里平分校』。(2008年6月撮影)
昭和51年に廃校になっていますが、現在も様々な活動の拠点として活躍中です。

 そして、忘れてはならないのが大倉ダムの存在です。定義山を参拝する人々の多くが、水を湛えた大倉ダムの姿を車窓から眺めることでしょう。

大倉ダムのアウトレット直下にある広場は、隠れた花見処です。(熊出没注意!)

 大倉ダムは、青葉城恋歌で知られた広瀬川の支流『大倉川』の上流域に設けられた特定多目的ダムで、日本では唯一となるダブルアーチ式コンクリートダムになっています。戦後の人口増加と台風(カスリン・アイオン等の台風)による河川の氾濫を鑑みて計画され、着工から4年を経た1961年(昭和36年)に竣工しています。(時期的には十里平の開拓と重なります。)

 とかく、ダム建設に関しては残念な話が付きものですし、私自身も疑問を呈する側の人間ですが、『60年を越えてなお供用できている点』については一定の評価をせねばならないでしょう。某国の危ういダムとは大違い。これもまたジャパンクオリティー(維持管理を含め)ですね。

『大倉』という地名を表す岩稜。(2016年4月撮影)
この地質がダムの堤体を支持しています。

 現在、大倉ダムの水は、長きに渡る減反政策により水田おける水利用が減ったこともあり、主に上水道・工業用水として使われている様です。
 また、季節に応じてワカサギやマス、ヘラブナやコイを狙いにきた釣り人や、カヌーやSUPといった様々なアクティビティーを受け入れる貴重な水辺になっています。

【注意!】
大倉ダム或いは周辺の渓流で釣りをする際には、名取・広瀬川内水面漁協の遊漁券が必要です。
また、山上湖のために水温が低いこと、加えて天候や時期・時間帯によって山風や海風が吹くことから、カヌーやSUPの初心者が単独で楽しむことは控えることをお勧めします。過去、強風によって体力を失って岸に戻れなくなった人を救助するために消防隊が出動した例もあります。
最後に、当該地域周辺は、普通にツキノワグマが出没する地域ですので、細心の注意と覚悟を以て楽しまれますよう。

雪残る大倉ダムから定義山方面を望む。(2010年3月撮影)

 かくいう私も釣りを嗜む身なれば、定義山界隈を流れる素晴らしい渓流大倉ダムは身近なフィールドであり、蕗の薹ふきのとうが芽吹く時節を迎えると、反射的に定義山の方向に体が動いてしまう・・・といった感じで当地を訪れていました。
(※原発事故以降は上流域での釣りを自重しています。)

定義山のお膝元『大倉ダム』に棲む『ランドロック・サクラマス』
ランドロックは、ダムを海と勘違いたヤマメが銀毛して回遊する個体を指します。
私は、定義如来と当地で咲く美しい山桜にちなんで『如来サクラ』と呼んでいます。
左下画像:春早い大倉ダムから定義山の方向を望む(2019年4月撮影)

 社寺仏閣に『生臭い釣り人』の存在はそぐわないとは思いますが、目指す魚が釣れようが釣れまいが、この界隈の水辺を訪れた際には、可能な限り西方寺を参拝(時間があれば、貞能堂で写経も)させて頂き、件の三角油揚げを買ってから帰宅するようにしています。
 そのくらい、私にとって定義山界隈は『身近な場所』なのです。


§ 定義雑感

 平貞能に由縁を持つ社寺仏閣に、エネルギーの供給を担った森林鉄道や戦後の開拓史、そして仙台平野を潤すために築造されたダム・・・。
 それらを客観的に眺めれば、山間地域にありがちな変遷の典型例にも思えますが、こうした趣のある地域が身近に存在することで、それまで薄かった故郷に対する思い入れも増してきたわけで、根無し草然として生きてきた私にとっては、本当に有難いことだと感じています。正に、故郷を愛でるきっかけを与えてくれたのが『定義山』だと言えましょう。

 そんなこんなの『地元民による観光案内』は、ここらで筆を置かせて頂きましょう。最後までご一読賜った、稀有で酔狂で賢明なる読者の皆様の人生航路『旅』が平穏無事であることを願ってやみません。

貞能堂に設えられた『丸に揚羽蝶』。
平安末期頃の平氏一門が好んで使っていた家紋のひとつ。

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