【参拝三昧】初詣は祖父の息吹と共に
例年の如く、静かなお正月を過ごしております。
今年の年越しは降雪が見られなかったものの、今日1月2日は、未明から降り出した雪で、我が家の周囲は真白な景色に変わっていました。
さて、お正月と言えば初詣ですよね。
我が家では、大國主大神を祀る大國神社へ、毎年参拝しています。
この神社は、仙台平野を囲うように形成された山襞の片隅に鎮座しており、風光明媚な景色が楽しめる場所にもなっています。
また、境内の裏山で可憐な山野草を観察できることから、愛好家たちの間ではつとに知られているようです。
僕自身は、この神社の喧騒から隔絶されたロケーションと、凛とした山の空気に満ちた境内、そして東へ真っ直ぐに延びる参道を好ましく感じて足繁く通っているのですが、そうした外形的な理由以外に、もう一つ大きな動機が僕にはあるのでした。
ここ大國神社には、母方の祖父が自ら製作して奉納した大黒様の石像(四体)が鎮座しているのです。
この大黒様は、東大寺や善光寺に鎮座する 賓頭盧様と似たようなお役目を担っています。いわゆる 撫仏ですね。
肩こりに苦しむ人は大黒様の肩を撫で、腰痛に悩む人は大黒様の腰をさする … そんな感じで御利益(緩和・治癒)を頂戴するわけです。
それから、この大黒様が ” 石造り ” であることの所以が分かるお役目がもう一つあります。
それは、願い事が叶うか否かの判別をするということです。
この大黒様を手に持って重いと感じたら成就せず(今暫く努力を要す)、軽いと感じたら成就が近い … といった具合ですね。
因みに、僕は軽いと思ったことが一度もありません(笑)。
恐らくは、この大黒様を手にした人間に重いと感じさせることで、改めて努力を促しているのだと僕は解釈しています。
この大黒様を製作した祖父は、僕が生まれる前年に鬼籍入りしました。
故に、会ったこともない祖父を身近に感じることができる機会は、この大黒様に会いに来た時だけだと言えるでしょう。
物言わぬ石像ですが、それでも僕の心を落ち着かせてくれる何かがあるようで、初詣のような節目の参拝だけではなく、仕事で移動する合間に立ち寄ったりしています。
農家の三男に生まれ、尋常小学校を卒業すると同時に、手に職を付けるため石屋へ丁稚奉公に出された祖父。
奉公先では、過酷な下働きをしながら、仏教全般について学んだことは勿論のこと、習字を徹底的に仕込まれ、叱咤激励の日々を過ごしながら、石を彫る技法を学んだと、職人の娘として育った母から聞いています。
そこには、得手不得手とか、自分がやりたいか否か … といった個人の意思を挟む余地は皆無だったはずです。
今を生きる僕が想像するまでもなく、丁稚だった頃の祖父は自分の生き道を見い出すことに必死であったろうと …… 。
こうした ” 時代の変遷と価値観の異なり ” を思う時、僕は恵まれた人生を歩んできたという事実を実感するのです。
そして、心が辛くなった時や、心底嫌な仕事に出くわした時に、記憶の中に存在しない祖父の姿を想像してやりすごすのでした。
何の因果か、母方の親族の中で造形を嗜む人間は僕しかいません。
誰に勧められたわけでもなく、極々自然に辿り着いた表現方法ではありましたが、母から祖父の人となりを教えてもらってからは、祖父との繋がりをなお一層感じるようになりました。
参拝を終えて、戻り足で ” おふるまいの焼き芋” を頂戴しました。
このおふるまいも、大國神社の特長だと言えるかもしれませんね。(境内では甘酒もふるまわれています。)
おふるまいと言えども、こちらの焼き芋は侮れないのです。
サツマイモを新聞紙にくるんでからアルミホイルで覆って焼いているので、仕上がりが瑞々しくてホックホク(嬉笑)。
年に一度の初詣。
ここ数年来の混沌を考えれば、こんな穏やかな気持ちで参拝をするのも久しぶりと言えば久しぶり … 。
雲の合間から顔を覗かせた青空に、ほんの少しだけ気分を良くした僕は、東に広がる仙台市街地の喧騒を想像しながら、神聖なる山の凛とした空気をおもいっきり吸い込んだのでした。