【褒める子育て】にモヤつく理由
最近では当たり前になりつつある
【褒める子育て】について考えることがある
できないことより、できる事を褒めよう
結果でなく、過程を褒めよう
確かにこの通りにできたら素晴らしいのかもしれないけれど、
下手すると【褒める】の安売りになりかねない。
そもそもの話
【褒める】って行為には善し悪し関係なく
上下関係が伴う
(【褒める側】上【褒められる側】下)
だから褒める行為は
その上下関係、侍従関係を確認する作業のような要素もある
【褒められる側】は上の人に認められたいって心理になりやすく
【褒められ待ち】の状態も生み出しやすい
更に、
結果でなく経過を褒め
子どもの自己肯定感をあげよう
って、育児教室とか、研修とかで
耳にすると、
自己肯定感を簡単に語るな
と、心の中で思ってしまう。
「結果は出せなかったけど、
その努力が素晴らしい経験だよ」
「元気で笑顔なだけで嬉しいよ」
「学校に行ってるだけでエラいよ」
って、存在らしきものを褒めたとき
その裏を返せば
じゃあ、、努力できない人間はダメなの?
元気で笑顔でない自分はダメなの?
引きこもりの自分は受け入れてもらえないの?
って、ことなの?
って、ややこしい私は考えてしまう。
【褒める側】が持つ思考のクセが
褒めるに値することを決定づけている
だから褒めるって行為は
本当は繊細さと技術が必要なことで、
空気、背景、声色、表情、タイミング
様々なことが絡み合い
その褒める言葉に魔法がかかる
質の低い褒めるを重ねることで
儚げな自己肯定感は生まれるかもしれないけど、
結局、上下関係の上塗りに過ぎないのではないかと
そして、褒める側である
大人の自己肯定感もまず疑ったほうがいい
どんな自分も受け入れ認めることなく
目の前の人を受け入れられることはないのだから
って、エラソーなことを
今日も、ここで静かに呟くのみです♥
さて、夕飯なににしようかな〜
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