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「すでに書かれたもの」から「まだ書かれてないもの」へ

「文字を覚える以前に比べて、職人は腕が鈍り、戦士は臆病になり、猟師は獅子を射損なふことが多くなつた。」(中島敦『文字禍』より)

文明と文字とは切っても切れないものだから、文字批判は文明批判でもある。文芸科学の発達にしたがって世の中はどんどんよくなっているという文明史観に対して、本当によいことばかりなのか、文字では汲み取れない世界があるのに、文字に頼りすぎることによって我々の意識から取り残されてしまったものがあるんじゃないか、腕の良い職人や猟師、勇敢な戦士などがもつ暗黙知をむしろ覆い隠してしまうこともあるんではないか。そういう問いを発している。

誰が文字を作ったか

文字が便利なものであり、また我々近代人の生活には欠かせないものであることには議論の余地はない。でも、人類の大半は100年くらい前まで文字を使うことなしに生きてきたわけだし、今でも文字なしで生きている人たちもいる。ぼくらの生活における文字の圧倒的存在を当然視するだけでは、無意識の信仰とあまりかわるところがない。

文字というのも偶像や絵同様に記号、つまり何か外に存在する対象を指し示すシンボルである。多分、文盲の時代には、字が読めない人は文字に対して偶像に示すのに近い畏敬の念を示した(例えば、聖書、お札)。でも、現代社会では、文字というのはカミサマやモノノケがつくったものではなく、ほかでもない人間サマが作り出した道具に過ぎないということになった。役に立つから使うのであって、文字自体に独立した価値があるわけではないということだ。

今となっては当り前の話だが、19世紀くらいまではヨーロッパでも、文字のもとになる言語自体の起源について、うるさく議論されてた。言語は神が創造し与えたものか、それとも人間が創ったものであるかについて、一流の学者が議論を戦わしていた。そして、人間の創ったものであるということに学者が決めてからも、多くの人はそのちがいについては無頓着に生きている。「そんなの当り前じゃないか」とか「どっちでもいいじゃないか」というのは、しばしば新しい言葉の裏に古い思想を維持するときに使われる言葉である。

なぜ文字を作ったか

人間がわざわざ文字を発明したということは何か目的があったからそうしたのである。では、その目的は何かというと、多分ふたつある。一つは、我々の生きる世界を表象すること。文字を知らないの時代には、その場にないものは、実物もしくはその代わりになるシンボルをもってくることによってしか表象できなかったのであるが、文字というのは便利なもので、その場にないものでも他のシンボルより効率よく表象できるわけだ(例えば、わざわざ受刑者に入れ墨をいれなくても、「受刑者」という文字をしかるべき書類に書き込めばよいわけだ)。

世界というのは人間の認知できる範囲より広くて深いから一度にそれを再現することは不可能に近い。文字を知らないの時代には、そんな世界の広さと深みを、むしろ曖昧で含みをもったシンボルで表したのである(たとえば、カミサマや大宇宙のイメージ、儀式的な話し言葉=祝詞や物語、儀式的な音楽)。今日では、文字がそうしたイメージや音から我々と現実を結ぶ媒体としての地位を奪い取った。科学というのは、世界を一つの書物のように文字化し解読しようという大事業に譬えられた。

言ってみれば、今まで限られたシンボルで表されていた全体というものを分析するという作業である。宇宙を批判的思考の対象にしたのである(批判的思考については以下リンク参照)。

こうした役割を期待される文字にとっては、コトバの調子、響き、覚えやすさ、もしくはより一般的に「美しさ」よりも、どれだけ「現実」を忠実に再現できるかが重要になる。つまり、他のシンボルと違って、文字の価値というのは、それで伝えられる内容が「本当か、嘘か」で判断されるということなる。科学論文や歴史論文が美しい文章である必要はない。

もう一つの文字の役割は、我々の意識の外にある世界ではなくて、我々の内面の世界を表象すること。我々の住む宇宙を外に押し出すことにより内なる大宇宙も発見したのが近代人。でも、それは外からは見えない。それを見えるようにするには、やはりこれをシンボルで表象するしかない。これもイメージや音などをつかって表象することができるのであるが、ここでもなぜか文字というものがしゃしゃり出てくる。いわゆる「文学」というものである。

この内的世界の表象機能における価値基準というのも「本当か、嘘か」なのであるが、外の世界の表象とはちょっと異なる。それは客観的に正しい必要はないのだが(フィクションは現実を忠実に再現したものではない)、「自分の内なる声に忠実」であることが期待される。自分の本当の気持ちに忠実ではない文章というのは、文字通りの「嘘」、偽善、であり、いくら美しくて調子が良くても、あまり価値がないものとなる。

文字崇拝の罠

文字というのが、内外二つの世界の表象媒体として重要性を増した背景には、この「外の宇宙/内なる自己の忠実な再現」という近代社会の要求があったのだと思う。直接存在を確認できる世界の向こう側にあるものを表すとき、文盲の人は曖昧さでもってその捉えきれない全体性を表そうとする(以前紹介した俳句に似ている)。文字を使える近代人は、その全体をコトバで語り尽くそうとするのである。

どちらが良い悪いという問題ではないのだが、近代人が自覚していないとならない危険というのは、語り尽くせないものを語り尽くした、もしくは語り尽くすことが可能という錯覚に陥ってしまうことである。つまり、文字で表象された世界が現実の世界を忠実に再現していて、我々の直接の経験に優先するという錯覚に陥るのである。その過程で、内外の世界にある混乱、矛盾、迷い、葛藤などが切り落とされる。それに関する暗黙知が意識の底に追放される。そして、文字の上では秩序に満ちた世界、統一された自己が作り出され、そこに合わないものは「あいつら」「我々の敵」「人でなし」「化け物」「異形のもの」「感情(論)」「主観(自己の外に追い出される主観!)」などとして外に追いやられるのである。

これは文字を通じて世界を知ることが多くなった現代人の誰でもが陥る罠である。机に座って何か読んでいるだけで知識はどんどんと入ってくる。われわれのもつ知識のほとんどは座学の知識である。耳学問である。言葉の体系上は一貫性をもった全体を成しているかもしれない。つまり論理的に整合性のある知の体系であるかもしれない。しかし、それをもって世界を知ったということが言えるかどうかはまだわからないのである。そういう知しかもたない人が、現代の賢者として、神のように現実の宇宙や人間を作り替えるような権威を与えられてよいのか。

文字崇拝の神官と宗教改革者たち

今日の文字文化の神官たる作家や学者がこのような問いを発するのは自殺行為のような気もする。だが近代の文学や学問などというものが、すでに書かれたものを覚えて繰り返すことからまだ書かれていないものを書くことへと重心を移すことによって、飛躍的に発展したものである。外的宇宙に関しても、内的宇宙に関しても、これは当てはまる。科学の発展、文学の発展である。このような批判がすでに近代のうちに秘められていたし、また個人が書く過程にすでに内在している。読むだけでは文字のありがたさの半分しか利用してないんである。

書きながら、自分の書いたものに疑いを抱く。だから、さらに考えて書き直す。そして、考えるための素材は、しばしば書物をおいて外の世界に出ることによって得られる。真面目にものを書こうという人はみな、このような経験をしたことがあるはずである。そうやってまだ表象されないものを表象しようとしているかぎりにおいて、ものを書くという作業はほとんど無限のものとなる。書くことは文字体系に依存するが、同時に閉じられた体系を突き崩す動きも伴っている。だから、同じことを違った言い方で繰り返すことに終始しない。

表象の手段にしか過ぎないものを表象されるものと勘違いするのが偶像崇拝だとすると、文字崇拝も偶像崇拝の一種である。そうなると文字を知らない時代と文字を知る時代との境界は曖昧になってくる。断絶ではなく継続性に目が行く。論理的にものをいう人もまた、日本に生きる人々がどうなろうとも個人の責任で知ったこっちゃないけど、国歌を一緒に歌おうよと誘って拒まれたり、国旗が切り貼りされたりするとなぜか腹を立ててしまうような方々と大差がないということにもなりかねない。

文字文化の神官はたいがいヘボな職人、臆病な戦士、腕の悪い猟師である。彼らが知ってることを知らないからそうなのである。文字が偶像崇拝の対象ではなくなるためには、すでに書かれたことからまだ書かれてないことに目を移さないとならない。つまり、文字文化の外にあるものに目を向けないとならない。文字になってないものは読まれないから、まず経験するしかない。

専門的な関心のある読者のために書いておくと、ここに、知の理性化が進んだ果てに、ふたたび「経験」というものが知の営みにおいて見直される理由があった。民衆の反知性主義に対応して、知識人は生の哲学とか経験論・実証主義的社会科学において自らの主知主義の批判を展開したのである。その反乱軍の頭領は、中島敦とか西田幾多郎とか柳田国男のように、まさに文字文化の権化みたいな人々から現れた。読めるように文字になったものだけを後生大事にすることを学問だと思わされてるかぎり、一種の偶像崇拝たることを免れなかったのである。

これは古典を読むことの否定ではない。自分の文字文化を疑ってはじめて、古典の文字ではなく精神を、言語化されてない思想を理解することができる。

(2010年4月11日。多少加筆修正した)

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